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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

方便(3)

(Aug.27,'08 タイトル変更しました。以前のエントリと重複がありました)

某氏のブクマより、作家の玄侑宗久文芸春秋のインタビューに答えた内容の記事を見つけた。もう1年以上前のインタビューらしく、ご本人のサイトに掲載されている。

記事のタイトルは「江原啓之ブームに喝!」(フレームサイトなので、記事内容が書かれたファイルに直リンク)と過激だけど、実際の内容は江原氏に対する強い批判と云うよりはその方法論についての(彼の立場から見た)評価みたいなもの。その評価の当否は措くとしても、そこに示されている見解は興味深い。

玄侑宗久臨済宗の僧侶でもあって、ぼくの読んだ何冊かもどこかで仏教の関わってくる話だったと記憶している。で、このインタビューの内容はその立ち位置からの視点も含めて、なぜ江原氏が受けているのかについて見解を述べたものになっている。けして歯切れはよくないけれど面白い。

まずじっさい、カウンセリングという観点からみると、江原氏は僧侶である私が舌を巻くような優秀なカウンセラーだと思う。と評価する。

 悩みを持った人に対して使う言葉というものは、普段の理性的な言葉とは違う。我々僧侶のもとにも、様々なことで悩んでいる人が訪れることがあるが、そのときに使う言葉は、たとえば今「文藝春秋」の読者に向かって使っている言葉に比べれば、かなり断定的な口調も方便として使う。

ここで彼の云う方便と云う言葉は、ここなんかでの議論でも時折いろんな文脈で顔を出す。でもってぼくなんかの主張は平たく云うと「方便は方便で有効だろうけど、事実とは違うよね。信じることはできるかもしれないけど、信じても事実にはならないし、判断基準としてはそれ以上のものじゃないよ」みたいな感じになるんだけれども(いや、もっと綿密な議論はしてますが)。そこから「事実と真実」みたいな話につながったりとか。
で、玄侑宗久は江原氏の「八つの法則」についてそれなりに評価したうえで書く。

ただし気になるのは、江原氏の論の中に「霊的真理」という言葉が頻出することで、江原氏が文化的な修辞法の一つとしてではなく、「ただ一つの真理」としてこれらの法則を主張しているように思われることである。
江原氏の「八つの法則」はシンプルな説明である。今の人たちがシンプルさを好み、単純なほどありがたいという気持ちから江原氏を支持するのは理解できる。ただ、あくまでも、これは文化の一つだという余裕が大切だと思う。それを飛びこえて、テレビや本で、「これが霊的真理だ」といわれると、「ちょっと待って、それは真理ではなくて、文化の一つでしょう」と言いたくもなるのである。

これが臨済宗のお坊さんの一般的な理解の仕方かどうかは分からないけれど、このあたりからぼくなんかが云っていることに近づく、気がする。

 また江原氏だったら、女性の背後に何かをみて、霊が憑依しているというかもしれない。同じ現象を表現する方法はある種の科学者も霊能者も宗教者も持っている。しかしそのうちどれか一つだけが正しいという立場は私はとらない。「わからないけれども、こうなりました」というところで、いいではないか。無理に合理的な説明をしようとせず、そのまま供養という儀式をしているのが、宗教者の立場である。
 宗教には「わからなさ」が必要だと思う。「人が死んだらどうなるの」と訊かれたら、私たちは「わからない」と答える。「わからないけれど」で出発すると、膨らむものがいっぱいある。

このあたり、まぁ「役回りの違い」とでも云うようなお話なのかな、とか思う。

玄侑宗久は江原氏の人気の背景を、個性重視の風潮に求める。そしてその背景を、現代人の「西洋化」という病にあるとする。これがあたっているかどうか、はぼくにはいまひとつ分からないし、この部分の議論はストレートには首肯できない。ただ、

 そのとき、江原氏が「悩むことはありません。あなたの魂には前世から決まっているこういう個性がありますよ」と優しく語りかける。迷い悩んでいる人にとっては救いの神であろう。
 なにしろ江原氏は、「芸術家」とか「侍」とか「僧侶」とか前世や守護霊の言葉を使って私の個性を「一つ」に決めてくれるのだ。もう自分探しに悩むことはないのである。そして、その個性は前世からの「宿命」だけれども、宿命を受け容れて魂の成長のために努力すれば、自分の「運命」を切り開くことができる、という江原氏の言葉は、現代の「個性疲れ」した日本人の胸に、優しく入り込んでくることだろう。

このあたりについてはよくわかる気がする。でまぁ、この辺はぼくの場合(西洋化個性疲れはともかくとして)現象としてのわかりやすさ志向・紋切型思考に原因を求めてきた部分で。
で、ぼくは最後の段落に書かれたこの一文に共感する。

現代の日本人は、「真理は一つだ」という言葉にあまりにも弱い。

事実はひとつかもしれないけど、真理・真実はかならずしもひとつじゃなくて。(相互に強い関連を持つことはあるだろうけど)事実は真理を保証しないし、真理は事実に必ずしも顕現しない。それほど世界はわかりやすくないと思うし、そのことを覆い隠す明解さには仕組みがある、と考えるべきだ、と思う。