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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

メモ:「信じる」

なんとなくいろんな事柄の根本にありそうな事柄。別のいろんな事柄についての考察にまぎれて今後も考えていくことになるような気もする。そう云うわけで、だらだらと結論の出ないメモ。

 「信じる」ことがいいことで、「疑う」ことが悪いこと、と云うニュアンスはどこから来るんだろう、とか思った。ニセ科学に関連してもビリーバーが云々、と云うような議論がうちでもあったけれど、やっぱり「信じる」ひとにとっては、「信じる」ことが「疑う」ことよりいいことだ、と云う発想がある気がする。 

で、多分ここにはそれほど難しいからくりはなくて。原則として、そのひとにとってよくないこと(もの)は、信じないから。と云うか、「信じる」と云う発話には、その対象となること(もの)がよいものである、と云う含意が多くの場合ある。
で、「信じるかどうか」と「その対象がよいこと(もの)であるか」は(語義のうえでは)直結しない。そのあいだには、その対象をよいこと(もの)かどうか判断する、と云うプロセスがある。つまり、自分の価値観に照らし合わせて。だからたいていの場合、あるものを「信じる」と云う言葉を発することは、その対象を「いいこと(もの)だ」と云うことを、(「そう判断する私」をオミットしたかたちで)表明していることになる。 

で、これをひっくり返すと、「疑う」ことが悪いこと、と云う意味合いが生じてくる。それは「いいこと(もの)だと云う(だれかの価値観に基づく)判断」を肯定しないことなので。実際のところ「疑う」と云う態度は必ずしも「信じる」ひとの価値観の否定にはつながらないんだけど(ちょっとASIOSのFAQにリンク)。

「信じる」って云うのはビッグワードで、だから包含する意味合いも相当広くて、この言葉をつかう側もその意味を必ずしも明解に意識しているとは限らなくて。なので、その言葉を使う側が、この辺の仕組みと云うかプロセスを辿っていることを意識していない場合もたぶんある。で、そのままニュアンスだけが流通して、例えば「共感」を呼んだりする場合もある、みたいだ。

こう云うなんと云うか、裏で動いているプロセスから切り離して考えると、「信じる」ことのメリットは「疑う」コストの削減にあるんだと思う(都度疑うのはとても面倒なので)。信念を持つことが称揚されるのも、たぶんそれが適切なものであれば効率向上に結びつくからだろう。その意味で、「信じる」ことそのものはよいことであったりする場合もある(ちょっとこのへんヒューリスティックについての議論にも近づきそうな気がする)。
実際のところぼくたちはとてもたくさんのものを信じて日常を生きている。それらを信じていることを、めったに意識することなしに(だから、疑う機会もないままに)。だからこそ、あらためて「信じる」と云うことを表明する場合には、たいていの場合裏のプロセス(価値観の表明としての意味合い)が伴う。

先述したように、信じているものを否定する、あるいは疑義を表明する側は、そこに必ずしも価値観の否定と云う意味合いを持たせているわけではない。でも、「信じる」と表明する側からすれば、それは(意識されるにしろされないにしろ)価値観を否定されたことになりうる。
価値観を否定するのは、別の価値観で。そう云うわけで、「信じている」もの(こと)に疑義を差し挟まれた側からすると、問題は価値観同士の対立に見える。しばしば意識されないまま、論点が「どちらの価値観が正しいか」にあるかのように把握されてしまう。

「よい」「悪い」と云うのも、「正しい」「正しくない」と云うのもビッグワードで。伝えるニュアンスはとても強いのだけれど、単体ではほとんど意味をなさない。一定の状況、視点を示さないと、これらの言葉を使ってなんらかの意味を伝えることはできない。例えば「科学的に正しい」と云った場合、それは科学と云う視点からみた「正しさ」で、その視点の依ってたつ価値観をそのまま保持すれば、科学的に「正しい」ことは「よい」ことになる。別の視点に立てば、その「正しさ」や「よさ」は意味をなさない(科学的な視点を用いることがどんな場合に適切か、と云う論点はもちろんあるけどそれは別の議論)。
科学的な価値観、と云うのはひとの外にあるもので、例えば信念のようなものとは違う。まぁ盲信することも可能かもしれないけれど、どちらかと云うとそれは方法とセットになった、上記したような意味合いにおけるコスト削減のための有用なツールで。外にあるものだから必要に応じて、それが有効な、役に立つ場面にだけ適用すればいい。別段それを「信じる」必要はない。「役に立つ」と云う以上に「いい」ものだと考える必要もない(と云うか、実利的な価値判断を切り離して信じたりいいものだと考えたりするのはむしろ危険)。

でもそれを「価値観の対立」と云う軸で捉えてしまえば、自分の「信じる」こと(もの)に対する疑義は「ある価値観による別の価値観の否定」と云う見え方になる。自分の価値観が「正しくない」もので、だからそれは「よくない」ものだ、と批判されている、と感じられる。で、自分が価値観の表明を行っている、と云うことが意識されていない、「自分自身」と「自分の価値観」が「信じる」ひとの意識の上で分離されていない場合には、疑義の対象となっているのが(「信じて」いるもの、ことではなく)自分自身の人格だ、として受け止められることにもなり得る(人格と価値観を自分のなかで分離して考えることがほんとうに可能か、と云う議論も出てくるだろうけれど、少なくとも自分がどんな価値観を持っているか、と云うことについて考えることはできるだろうし、別の価値観の有用性を認めて、場合に応じてその別の価値観に基づいて判断を下すことも可能なわけで)。

「科学が絶対ではないでしょう?」「もちろん」

「科学がすべてのひとを幸福にするの?」「なにを幸福と考えるかによります」

「科学がいつも正しいの?」「いいえ。対象によっては」

「科学的な価値観だけが重要なの?」「まさか」

「科学的価値観なんて自分には関係ない」「ほんとにそうですか?」

最初に書いたとおり、結論はないのだけれど。
「『信じる』まえにちょっと考えてみて」みたいなことを伝えたいときに、ぼくはどうして口ごもってしまうんだろう、みたいな話。