Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

表現と軸のシフト

ふた月ばかり前にまとめ読みした関係もあって、とりあえず「スカイ・クロラ」が映画化されたら見に行こうとは思っていた。
いま、2回目を見に行って、帰って来たところ。面白くて、惚れ込んで2回見に行った、と云うよりは、なんとなく確認したいことがあって2日続けて映画館に足を運んだ感じ。

確認したかったのは、もちろん空中戦のディテイル。マニューバと、そこで交わされる会話。
もちろんぼくはたいして目も耳もよくないから、例えばコクピットの視界から見える敵機の動きも追いきれないし、無線音質の会話もちゃんと聞き取れない(スカイリィを「ジェイ・トゥヴァイ」と呼んでいたように聞こえたけど、この矛盾のある呼び名が正しいんだろうか)。

原作に即して考えれば、この映画でいちばん重要なのは空中戦のシーンだ。それは、見せ場だ、と云うだけの話じゃない。
どのような兵站になっているのか、空軍のみで構成される戦闘法人。そこでパイロットとして闘うキルドレたち。すべては、作中世界で空中戦を実現させるための道具立て。だから、すべては空中戦のなかで解決される。カンナミはクサナギを射殺しない。地上では、なんの結論も出ない。物語の帰結は、空中戦に集約される。

それでも原作には、戦記物にありがちな「信頼」を軸とした雰囲気がある(それそのものが作者の罠なのかもしれないけど)。押井守はササクラを女に、母性を象徴するものに設定することで、その雰囲気を切り離す。原作のかりそめの、悪辣な安定感は、より分かりやすい象徴の採用によってさらに抽象化され、本質的な不安定さと破綻があらわにされる。この世界観の軸のシフトは、もともとの小説世界を映像化するにあたってより具体的なイメージを提示することによって生じたものなのか、それとも押井守のいち解釈(これはぼくの見たいくつかの映画でも、ほとんど破壊的な作用を生ぜしめ得るものだけれど)によるものなのか。
キルドレ、と云う概念は原作でもどこまでも曖昧だ。キルドレ当人たちにとっても、それらを報道や研究の対象にする「ふつうの」ひとたちにとっても。それはあくまでも事実の断片としてしか提示されない。そして、その概念は、映画のなかではどこまでもインサイダーの視点からしか示されない(もっとも直接の原作となっているシリーズ一作目「スカイ・クロラ」の時点では、確かに外からの視点は示されないのだけれど)。クサナギと云う概念の破綻(同時にある「きっかけ」)、ミツヤとカンナミの、カンナミとクサナギの娘の対話のなかで示されるキルドレ本人の意識の関与。そこにある曖昧さの質が、森博嗣押井守それぞれの提示するもののあいだで、齟齬はないのか。

最後のティーチャとのドッグファイトの直前で、カンナミはティーチャを"Father"と呼んでいたように聞こえた。
分析心理学をひどく通俗的に運用すれば、作品世界としてこの言葉で完結させることがひどく容易になる。でもそれは、原作のある意味での矮小化(これは遠い昔に「ビューティフル・ドリーマー」を観たときに感じたものだ)を意味しはしないか。いや、もちろんそんなことは分からないのだけれど。ティーチャの子を産んだクサナギは、端的にエレクトラ・コンプレックスを成就したのか。いや、そのことがまさにキルドレと云う概念の破綻だ、と云う話ならすっきりするのだけれど(あまり価値のないすっきり感ではあるけれど)。
じゃ、「母」はどこにいるのか。女性にされたササクラは、そこまでを担ってはいない。 

原作はすべて一人称で、でも映像はどこまでも三人称的に展開していって。
だから空中戦は、コクピット内の描写を除けばどこまでも華麗に、スピーディに展開する。そう、まさに宙を舞うがごとく。おそらく動体視力にすぐれたひとなら、P-51をモティーフにしたとおぼしき(機首におそらく液冷V型エンジンを縦置きにした)スカイリィと、震電からデザインを取ったと思われる(機体最後尾に星型エンジンを積んだ)散香の運動特性の違いを見ることもできただろう。
でも、原作で描かれるコクピット内の情景は、けしてかろやかなものではない。エンロンを、エレベータを、フラップを操作して主人公たちは空気を捕まえ、また時には空気を主翼から引き剥がし、ドッグファイトに必要なマニューバを実現する。そこにいつもあるのは重力のくびきだ。そこから逃れることはできない。空中戦を実現するのは、足場としての空気をどう扱うか、と云う技術だ。それは外からは見えない。すでに書いたように、それはひょっとすると本質的な違いかも知れない。まるでフィオナ・アップルのように色素の薄いクサナギの眼が、ものがたりに不要なほどの神秘性と表面的な美しさを与えているかもしれない、のと同じような感じで。