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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

「売ること」と「伝えること」

ryuzi_kambeさんのエコと広告 〜 科学に対して嘘をついても罰せられることはないのかと云うエントリを読んだ。どうもなんかちゃんとまとまったことを云える気はぜんぜんしないのだけれど、議論の裾野として必ず関わってくる部分についてお書きになっていると思うので、そのあたりの認識だけ示しておきたいと思った。

ちょっとだらだらした垂れ流しになってしまうけれど。

これ、少し前のエントリのコメント欄でJemさんやLightさんとお話ししているなかで出てきた、「商売の視点」みたいなのに関わってくると思う。

品質や、イメージや、ストーリィで差別化して商品を売るのは、まぁ通常の商行為のなかであたりまえのこととして繰り返されていて。で、それを買う側がどう評価するかで、マーケットシェアだの利鞘だのが変わってくる。ただ、評価してもらうためには、どんな付加価値があるのかを理解してもらわなければいけない。付加価値が非常に理解しにくい難しいものだったらそれは認めてもらえないし、仮にわかりやすくてもそれが消費者にとってあえてそれを選ぶ(または上乗せ分のお金を払う)だけの意義のあるものとして認めてもらえなければ意味がない。で、後者については、消費者側の価値観と云うものが必然的に関わってきて。

で、広告、と云う視点で見ると、このふたつは分離されるようなものではなくて。#1「いいものできたよ!」とか伝えるだけじゃ足りなくて、#2「こんなところがいいんだよ!」でもまだ不足で、#3「こんなところがいい、って感じる感性がかっこいいんだよ!」くらいまで提示するところまでが守備範囲になってる、みたいな。
で、#2「 こんなところがいいんだよ!」と云う部分にまず、いんちきが入り込みやすい(いや、広告する側が意図していんちきをしているかどうかは別の議論として)。ここに「科学的に証明されている」と云うのが入ってきて、しかもそれが虚偽ならニセ科学商品の出来上がりで。まぁこの部分もすでになにがいんちきでなにがそうじゃないのかはっきりするものではないので(あと、「どれくらいまではいんちきじゃないか」ってところもね)そうそう簡単に見破られたり断罪できたりするわけではない。逆に云えば、ニセ科学商品と云うのは「うそ」であれば「うそ」だとわかる基準がある分、まだ判別しやすいとも云える。

とにかくわかりやすいマーケティングコピーで多くの人に浸透しているワードであれば、それが雰囲気モノであっても広告の中のメッセージとして使用されることがあるということは事実だし、それがためらわれないのは科学と反することを発言してもそれが罪に問われないからなのではないかと思う。

まぁ確かに罪に問われないわけではあるけれど、それ以前にこれって「科学を装う」と云う部分があるから(つまり、科学と云う相応に権威を持つ体系を正当とは云えない方法で利用しようとしているから)分かるのであって、と云うところもあるかと。と云うか、そもそもそう云うふうに動いていく力学そのものが広告には内包されているのだけど、ニセ科学の場合は相対的に判別がまだ容易だ(どこでいんちきしているのかはっきり分かる)、と云うことでもあるのかなとか思う。判別基準のないいんちきは、当然ながらそもそもいんちきかどうか判然としないわけで。
ついでに云うと#3「こんなところがいい、って感じる感性がかっこいいんだよ!」と云う部分は場合によってはもっときわどいように思える。それは価値観の提示なので。まぁこの辺多分最近で典型的なのは、ロハス、なんだろうと思う(よく云われることだけど、ロハス、ってのはマーケティング用語で。もともとライフスタイルを意味する言葉ではなくて、LOHASと云う略語で象徴されるライフスタイルと価値観「のようなもの」と抱き合わせで商品開発と市場開拓、販売を行う戦略のことを示している)。
広告が悪いわけではなくて、いい商品をみんなで使って満足するためにはやっぱり必須で。

で、それが成功しているか失敗しているかを測るための指標は、資本主義社会に暮らしている限りお金しかなくて。
でも、このあたりの話は経営学者の福耳先生が折に触れて言及する「正義商品」みたいなもの(この辺とかこの辺とかでひどくまとまらない言及をさせてもらったりしたけれど)をどう考えるのか、と云うことにも多分つながってくるんだろうなぁ。