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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

共感の陥穽

菊池誠のwebちくま連載「科学者にも怖いものはある」の第6回、納得力のある風景(承前)が掲載されていた(いや、ぼくが読み落としていただけでもう10日も前になるのだけれど)。今回は「水からの伝言」にも触れている。

ぼくらはいい話が聞きたい。いい話を伝えたい。感動したい。
そして、そのことで分かり合えていることを感じたい。共感し合いたい。
そこにまず、最初の陥穽はないか。

 繰り返しになるけど、妄想を抱いてしまう人がいること自体はしょうがないのだよね。その人に行動力があれば、自分の妄想を世間に知らせようとするかもしれない。問題は、それを聞いて納得しちゃうこと。
 たとえば、言葉には人の心にはたらきかける力があるから、水にも影響を与えて不思議はないんだ、というたぐいの説明をされて、納得したり腑に落ちたりしてしまう人が少なからずいる。この説明の前半と後半には本当はなんの関係もないのだけど、こうやって繋がれてしまうと、うっかり納得力を発揮し過ぎてしまうのだろう。
 それはたぶん、はじめに「いい話」だとか「心地よい話」だとか、共感しちゃったせいなのだ。共感してしまえば、あとはどんな説明でも納得しちゃえるのだと思う。よく考えてみると、この水の話は決して「いい話」どころじゃなくて、とんでもなくひどい話だとわかるはずなんだけどね。だって、人の心よりも水の言うことを信じようっていうんだから。


でも、そのよく考えることを阻む力が、ぼくたちの「共感したい」と云う思いには、あるのかもしれない。

ぼくたちは、おなじ人間だ。だからおそらく(適切ではない比喩だけど、例えば分析心理学的には)心を形成している要素は共通しているし、そのおおまかな構造も似通っている。でも、なにをよいと感じ、美しいと感じ、感動するかにおいては、所属する文化や、社会や、個人個人を取り囲む環境につよく影響される。それらを共有しない個人間では、わかりやすい共感はまったくと云っていいほど発生しない。

そして多分、「分かり合えた」と感じたことも、そのほとんどは錯覚なのだろう。たぶんほんとうの意味で分かり合うためには、個人の文化や環境を越えた、より深いレイヤーまで降りていくことが必要だろうから。もちろん、それらに共通点を持つ個人同士では、もっと表面に近いレイヤーで分かり合えることもあるだろうけど、思うにそれは(「分かり合えた」が成立するために必要とする条件が多い分だけ)容易に排他性に結びつく。
おそらくそれは、共感を、感動を、守ろうとすればするほど。

ほんとうに分かり合うための基盤として、表面的な共感はあまりにあいまいな基礎を持つ、信頼のおけない脆弱なものだと思う。分かり合うことをあきらめてしまわないためにも、ぼくたちはまず、その部分を疑ったうえで語り合う必要があるのだろう。