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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

機械になる (「スカイ・クロラ 」森 博嗣)

一週間で4冊読んだ。

スカイ・クロラ (中公文庫)

スカイ・クロラ (中公文庫)

  • 作者: 森 博嗣
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2004/10
  • メディア: 文庫
 

ナ・バ・テア ダウン・ツ・ヘヴン フラッタ・リンツ・ライフ

まぁ諸事情があって、通常よりも読書に回せる時間が多かった、と云うこともあったんだけど。

じつは森博嗣を読むのはこのシリーズがはじめてで、それは主にぼくが推理小説にほとんど興味がないことに起因する(まったく読まないわけではないけれど、通常はその小説の「推理小説ではない部分」に興味を惹かれて読むことになる)。このシリーズを読んでも、例えば彼の推理小説を読もう、と云う気持ちには特にはならない。

でも、われながらこのむさぼり方はちょっと異常だ。いったいどこにこんなに惹き付けられたんだろう。基本的に、感情移入が可能な登場人物はほとんど登場しないのに。
やっぱり、散文詩のごとき空中戦シーンの描写なんだろうな、と思う。そこには、わずかながら感覚が掴めるものがあるから。単車乗りとしての。

機械の一部になる。あるいは、機械が自分の延長として機能する。シンプルな、単純な目的に向かって、機械と自分が同化する。
もちろんぼくたちには闘うべき相手はいないし、僚機の安否はなによりも重要な事柄だし、ともかくも飛行機乗りに較べればはるかに地上的だ(名刺2枚程度の接地面積が、自分の命そのものに直結するほとんどすべてだ)。それでも、走る、と云うただそれだけの目的に向かって自分と機械を直接つながれたものとみなす、と云う点ではやはり似ていると思う。通常の暮らしではまれなくらいに、じかに死に近づく、と云う意味でも。
その瞬間だけが生きるよすがになったら、おそらくはぼく自身もシンプルになれるだろう。カンナミやクサナギのように。もはや地上的である必要がない、と云うことになれば。それが現実的か、と云う部分はまぁ、棚上げにして。実感や共感など湧きようのない空中戦シーンをぼくがこれほどに求めたのは、たぶんそう云うことなんだ、と思う。

ちなみに、金曜日に「フラッタ・リンツ・ライフ 」を読み終えてから進んでいないのは、どうやら5月に出たはずの5冊目クレィドゥ・ザ・スカイの文庫版が品切れらしい、と云う理由による。どの書店に行っても置いてないし、アマゾンでも6月8日現在で新品はない。
おそらく5冊目ではキルドレの謎、クサナギの身体に起こったことの謎も明かされるだろう。作中世界そのものの種明かしも行われるだろう。でも、ぼくはそれらを早く知りたい、とは思わない。謎解きにはあまり興味はない。だから、単行本やノヴェルズで購入はしない。おとなしく文庫版の重版を待つ。

作中に登場する唯一ぼくが感情移入可能な人物、ササクラの研究開発がどんなふうに進んでいくのか、と云う部分は気になるけれど。

ガソリンの揺れかた

ガソリンの揺れかた

  • アーティスト: BLANKEY JET CITY
  • 出版社/メーカー: ポリドール
  • 発売日: 1997/05/28
  • メディア: CD