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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

弱くあることのできない、弱さ (「ステーシーズ―少女再殺全談」大槻 ケンヂ)

久しぶりにオーケンの小説を読んだ。

ステーシーズ―少女再殺全談 (角川文庫 (お18-16))

ステーシーズ―少女再殺全談 (角川文庫 (お18-16))

  • 作者: 大槻 ケンヂ
  • 出版社/メーカー: 角川書店
  • 発売日: 2008/03/25
  • メディア: 文庫
 

文庫が出ているのになぜかAmazonでは単行本しか載ってない。上は単行本。(6/7 上記リンク先の相違に気付いたので修正しました。文庫版は書籍タイトルから違うのね)

近い世代でそれなりに名前の残っている人間があまりいない状況で、大槻ケンジはちょっと珍しい存在だ。でも、その立ち位置はちょっとばかり微妙で。なんと云うかぼくの世代の「駄目さ加減」を体現しているような。

オーケンはその駄目さから目を反らさない。多分、反らせないのだと思う。
自分にそう云うふるまいを赦す無神経さは、一面、やはり強さだ。生きていくための。多分、彼はその強さを持ち合わせていない。だから多分ずっと自分が「次に死ぬリスト」に載っていることを自覚して、意識しているんだろう。
その弱さは、持ち合わせたもので、仕方のないもの。自分を取り囲む世界が絶え間なくその弱さを責め立ててくるのも、仕方のないこと。

表現者、と云う立ち位置を選んだことで、彼はそのことから目を反らすことができなくなった。自分を傷つける表現から、身をかわすことができなくなった。そう云う「強さ」を、選ぶことができなくなった。
この小説が一般的にどのように読まれているものなのか、ぼくには皆目見当がつかない。ここには残酷な世界がある。それはオーケンやぼくたちをいまゆるやかに包んでいる世界の残酷さと、多分本質的には変わりがない。それが剥き出しになる切片が現出しているか、それともかろうじて薄い皮膜の向こうに見えているか、だけの違いしかない。

同世代に、そこから目を背ける強さを持たない表現者を持ったことは、幸運なのかどうか。
漠然とでも確信できる信頼感は、あまりに頼りなくて、なんの役にも立たない代物だ。