Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

余計なお世話は承知ですが

なんか陰謀論ニセ科学ニューエイジ市民運動は妙に親和性が高いみたいでなんだかなぁ、と云うような話は以前から時折あって、信じぬ者は救われるで触れられていたりkikulogの憲法9条と911陰謀論、または安斎先生はどう考えておられるのだろう(追記あり5/2)と云うエントリのコメント欄で議論が続いていたりするのだけど(いやまぁ、ぼくは特に議論に参加してはいないけど)。この辺りに絡んで、mojimojiさんの似非科学を似非科学的に批判することと云うエントリを読んだ。

ちなみにkikulogの当該エントリでの論調のひとつに、「ニセ科学を持ち込むと運動そのものの信憑性にも悪影響がでちゃうよ。そこんとこ大丈夫なのかな」みたいな部分がある。で、これって基本的にはまぁ余計なお世話だったりして、ニセ科学を批判する側からそんなことを心配してあげる筋合いはないし、まぁ個々の政治的信条みたいなものと離れて考えれば、ある意味そのことでだめになる市民運動があっても知ったこっちゃなかったりもする部分で。
要するに、その辺で特定の市民運動を批判する意図は本来ない(ニセ科学批判の文脈では「声のでかい奴がニセ科学に携わるのが迷惑だ。その市民運動に関わってるひとたちのあいだでニセ科学が広まるのも迷惑だ」以上の批判点は基本的にない。もう一回強調しとくと、ここではもちろん個々の政治的信条は措く)。

似非科学的な人が、護憲を主張してるというときに、その似非科学的なところを批判するのは、まぁ、当然だと思う。ただし、「似非科学的な人が護憲を主張してるから、護憲の主張自体もうさんくさい」などという態度は、それ自体が似非科学的だろう。

だれもそんな態度はとってない、と云うか、「ふつうの市民」にそう見えちゃうかもしれないけどいいの? みたいな話なんだけど。どこかで誰かが「詐欺師が市民運動しちゃいけないのか」みたいな言い方をしていたけど、それ以前にいんちき商売やってるひとのご立派なご託宣を、はたして多くのひとに届けることができるのか、みたいな話で。

いやそりゃ届くかもしれませんよ。世間が「いんちきはいんちき、護憲は護憲」って考えてくれるひとばかりだったらいいでしょうよ。良識ある市民ってのはそう云う考え方を一般的にするものなのかも知れません。でも、市民運動が動員しなきゃいけないはずの大半の「ふつうの市民」ってのは、そんなふうに考えてはくれないんじゃないかな、なんてぼくなんかは思う。

これはむしろ、万有引力の法則は認めてもいいが、護憲は認めたくない、と言っているに等しい。似非科学的な上に、典型的な自己欺瞞なわけだ。

いや(文脈上護憲はある意味どうでもいいし。

しかし、「似非科学的な人が市民運動やってると、市民運動全体の信用を下げるから問題だ」というようなロジックを採用するならば、それは上述の似非科学の論理を自らも採用しているということは自覚した方がいいんじゃないかな。

いや、そのロジックをニセ科学批判側の人間が採用するかどうかはたいした問題じゃなくて。問題なのは、「似非科学で儲けてる人間がやってる市民活動が(それがどれだけ意義のあるものでも)世間に信用してもらえるの?」って部分で。例えば収賄と利権漁りばりばりの政治家が、それでもすげえ的確で有効な政策をごんごん打ち出すってことももちろんありうるわけで、で世間ってのはその打ち出す政策の意義を認めてあとは目をつぶってくれる場所かって云うとそんなことないでしょ? ってレベルのお話。

アメリカがアフガニスタンイラクを攻撃したときの理由づけは、実にトンデモであった。「大量破壊兵器を持っているに違いない」、あれこそまさに陰謀論であって、その陰謀論にしたがって実際に戦争までやった。たくさんの人を殺した。さらには、それが見つからないとなっても、ともかく攻撃そのものが間違いだったことは絶対に認めない。これこそまさに似非科学である。

それ別に似非科学じゃないし。もちろん科学でもないけど。いや、ここでmojimojiさんが似非科学と云う言葉をなんらかの比喩として使っている可能性もあるけど、ちょっとそこまで読み取れない。

だとすれば、なぜこうした似非科学的態度は、保守全体の信用を損なったりしないのだろう。

別段団結して運動する動機のない個々の保守にとっては、その首相が信用を失おうがどうしようが特に関係なかった、と云うだけでは。

この世にはびこる非合理主義に反対する運動と、具体的な政策の実現・阻止のための運動とは別物。前者は一つ一つの発話の積み重ねの中で、長期的にやるしかないものだ。そして、一人一人の考え方は完全に同じということはないのだから、究極的には一人でやるしかないもの。何人かがグループを作ってやっているように見えても、一人でできる人がたまたま近くに集まっているだけのこと。そして後者においては、たとえば「教育基本法「改正」阻止」のような、具体的な目標が一点に定まっているなら、それ以外は一切不問というのが基本的なスタンス。「教育基本法万歳」な人も「欠点はあるが、改正案よりマシ」という人も、(そういう人がいたかどうか知らないが)「教育基本法を変えるなというお告げがあった」という人も、一切不問。

まぁここの部分に異論はなくて。特に前者については、まぁそうだろうな、でも議論を通じて得るものはあるよ、みたいな感じ。後者については、ほんとにそんなんでいいの? みたいな疑問もあるけど、どうやら市民運動ってのは「善意」とか「共感」とか「中心人物の『人間力』」みたいなのを重視して「共闘」されるものなのかな、運動の過程で「合理性」みたいなものは二の次三の次で邪魔になるときには積極的に排除されて運営されているものみたいだな、なんて思わされる事例をごく最近も目にしたところなので、まぁそう云うものなのかも、みたいな認識もある。

とりあえず市民運動に接する世間のみなさんが、みんな「いんちきはいんちき、運動は運動」みたいに考えてくれるひとばかりだったらいいですね。世界をいいほうに変えられるかもしれませんね。

結局問題になるのは、それぞれの主体性、ということなわけだ。

この一節には完全に同意できるのだけど。