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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

技術とニセ科学

tiharaさんの大半の疑似科学は技術である。と云うエントリを読んだ(via打席に立とうとしない人々by dlitさん)。
うむむ。ぼくは技術者ではないので、技術者の方々の実感、みたいな部分はよくわからないのだけれど。

 科学はなんらかの現象を「説明できる/できない」で語るものだ。他方、技術は「使える/使えない」で語るものだ。まるで文脈が異なる。

これはわかる。感覚的にも理解できる。ただ、その技術がなんらかの責任を負うためには、その裏づけのようなものが(必要だ、必要じゃない、ではなく)ほしくならないのだろうか。

この辺りの感覚は、もう技術者の方それぞれのものでしかないのかもしれない。ただ、ここでよくコメントをくださる技術開発者さんがどこかのコメント欄(ここだったかもしれない)で、「どうしてそうなるのか、がわからないのは、やっぱり気持ちが悪い」みたいなことをおっしゃっていたと記憶する。なんかその感覚がすっと落ちたので、漠然とそう云うものだと思っていた。当面まず使える、と云うだけではまぁ納得いかないだろうし、そうするとやっぱり「なぜ使えるのか」みたいな部分を踏まえることができないと、現場で使っているほうとしては釈然としなかったりするんだろうなぁ、みたいに。

「使える/使えない」軸で待ったなしの評価が下されるものに、まずは医療技術と云うものがあって。この辺りについては一時期ちょっと考えていたことがあって、その時のいちおうの結論は「医療は純粋に科学的側面のみで語れるものでもないし語るべきでもないが、一定の責任を負うためにはやはり科学を背景にする必要がある」と云うようなものだった(ちなみにこの件については自力の思索で当座の結論にたどり着けた部分がいつにも増して少なくて、なんと云うかいろんな方からの多くの示唆を組み合わせてひいこらしながらやっといくらか落ち着きのいい認識に到着できた、と云う感じ)。で、このようなかたちでぼくは自分のなかで、有効でありうる代替医療技術と科学的な医療技術のあいだにいちおうの線を引くことができたのだけれど。
tiharaさんの考え方だと、例えば科学的な裏づけのある技術とそうでない技術を弁別する意義はない、と云うことになるような気がする。もちろん「使えればいい」と云うのは技術の大前提で、使えさえすればエンジニアではないぼくたちもその恩恵に浴することが可能になるわけなのだけれど(その意味でもちろん正しいとか間違っているとか云うような種類の話ではないのだけれど)、そこに留まる、と云うのはある程度一般的な感覚なのだろうか。

だとすればそもそも、技術と云う文脈においてはそのバックグラウンドが科学であるのかニセ科学であるのか、を弁別する動機はなくなる。なくなったら困るとかまずいとか云う話じゃなくて、それはエンジニアとしての観点から見たある程度一般性のある認識なのだろうか(なんとなくtiharaさんの認識のよしあしを云々しているようにも読めるかもしれないけどこれはまったくそう云うことじゃなくて、「一般的な認識」と云う意味で)。

 科学と技術はもともと別々のものだった。それが融合したのはかなり最近のことだ。私は、この二つをもう一度分離すべきなんじゃないかと思っている。

ここでおっしゃる技術と云うのは例えばワインをおいしくつくる技術であるとか、味噌をおいしくつくる技術であるとかそう云うものをおっしゃっているのだろうから(違うかな)、もともと別々のものだったと云うのは理解できる。でも、なんとなく漠然と科学と技術は相互に支援しあっているものである、みたいに認識していたので、もう一度分離すべきなんじゃないかと云われるとこれもよく分からなくなる。
エンジニアリングの側から見て、それって損じゃないのかな。不安になったりしないのかな。
多分tiharaさんは極論を語っておられるだけなんだろう、と云う気もするので、ここまで書いたことがまるきり的外れであることもまぁ、ありうるのだけれど。

あと、関係ないような気もするけどどうしても思い出してしまうのは、「マイナスイオン製品の開発を担当させられてしまった家電メーカーの技術者」の方々のことだったりするのだった。モラルの問題、と云う云い方をするとそれはそれで多大なる語弊があるのだろうけど。