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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

動機と材料

uumin3さんがなぜいつまでも水伝?続・なぜいつまでも水伝?と云うエントリを挙げられていて、それに続く続続・なぜいつまでも水伝?と云うエントリをお書きになっていて。で、それに対するレスポンスとして、TAKESANさんが何故かと言うとと云うエントリを、亀@渋研Xさんが本当に「なぜいつまでも水伝?」なんですと云うエントリをお書きになっていて。
そう云うわけで、この一連の話題については相当丁寧な議論がかわされていて、ぼくが独自に付け加えることのできるような知見は特にないように思うのだけれど、「水からの伝言」に触れる内容を述べることの多い書き手として、ちょっと現状認識について書いておこう、と思う。

水からの伝言」を受け入れる言説は減少していない

いつも引き合いに出すのはブログ検索で「水 結晶 70%」って検索してみる、ってパターン。ネットワークビジネスお薦めブログも含めて、だいたい毎日1件以上、このことを論拠にして何事かを述べているネット言説が生産されているのがわかると思う(60%だったり、80%だったり、7割だったりすることもあるので実際には同種の言説はもっと多い)。まるきり廃れてなんかいないのが現状で、いまでも相当なボリュームで流通している。ついでに内容を拾い読みしてみていただければ、それがuumin3さんの云うような「批判言説があるせいで生き残っている」と云うようなものではないのはお分かりいただけるかと(どうかな?)。 で、議論そのものはそのまえの議論を踏まえて先に進んでいくのだけれど、議論の外の個別の言説はもちろんそれまで「どんなことが議論されてきたか」は踏まえていなくて、当然ながら周回遅れなんかも発生する。これは当たり前のことで、でこのことに対応するには「何度も云う」しかない。読むひとも退屈だろうからまるきりおなじ角度からおなじことを書くことはしない(ようにしているつもりだ)けれど、でもおなじ事柄に何度も言及することに、ぼくは意義があると思っている。

水からの伝言」はわかりやすい

ニセ科学を継続的に批判している人間の動機はひとそれぞれさまざまで、統一されたものはない、と云うのはだいたい批判者側では共有されている認識だと思う。で、ぼくなんかはニセ科学と云う切り口で、その根底にある紋切型思考と云うものについて考えていくのがわりと根っこにある動機だったりする。

ニセ科学」と云う言葉についてはいまでもときおり議論が生じるような、まぁ「生きている」言葉で、批判の対象となるにあたっての要件もそれなりに(実地にあたっては)複雑だったりもするけれど、菊池誠がどこかで書いていたように「水からの伝言」はそのなかでもとりわけ「わかりやすい」(なんたってその基本構造が金枝篇で読み解けてしまうくらいで)。

わかりやすいことに対してどうして何度も言及するんだ、もっとわかりづらい事柄に取り組めよ、みたいな云われかたをすることが多いけれど(なんとなくそう云いたくなる気持ちもわからなくはないけど)、ぼくの場合動機が上述のようなものである以上、「ある程度のマスを持って流布していて」「その構造が見えやすい現象」のほうが材料として適切なわけだ。

ぼくは「科学至上(絶対)(万能)主義者」でもなければ、「科学リテラシの重要性を啓蒙するために批判を行っている」わけでもない(わりと頻繁にそう云うふうに決め付けられるけれど)。オカルトを嫌悪しているわけでもない(程度の低い、紋切型の集積の域を出ない安物のオカルトは許せないけれど)。ただ、どう考えても不適切な場面で「信じること」を「信じて」しまうことを問題にしている、みたいにも云ってしまえば云える。

ついでに云うと当然ながらぼくが言及する対象は「水からの伝言」絡みの言説だけではないけれど、そこにはそれまでの議論で得られた知見が活用できている。で、こう云う(主に議論を通じて、ここのコメンテーターの皆さんをはじめとする多くのひとの示唆によってそれなりに鍛えられた)知見は、うまく行けばこの場所の議論以外の場でも「使える」ものになりうる。微々たるものにしても、これはこれで貢献できる可能性のある部分ではある、と思っている。

上でリンクしたuumin3さんの

続続・なぜいつまでも水伝?

と云うエントリのなかに、

 要はそういうのを信ずる人の人格を否定するようなからかい方をせず、きちんと話してみるということに尽きるのではないでしょうか。アンチ疑似科学とアンチアンチ疑似科学のやり取りの中でそうおっしゃっていた方がいらっしゃったと憶えておりますが、非常に納得させられたものです。

 そういう対応をきちんとして、なおかつ相手が信念を曲げないなら、それはもう一般の合理的な理路ではないところにその相手の動機がある(もしくは何らかの宗教的なるものへの渇望を抱えている)ということではないかと思いますので、それはどうしようもないと一旦諦めるのが穏当なところではないでしょうか。

と云うくだりがあるけれど、いちおうぼくとしてはその向こうを見ているつもりではあるのだった。