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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

お分かりのはずなのに

wowowow0821さんの水は答えを知っている—その結晶にこめられたメッセージ / 江本 勝と云うエントリを読んだ(おお、コメント欄にせあささんが)。

リテラシ、と云う言葉があって。なんか印象としてはこの5年ぐらいに急速に広まって、広まる過程で超高速で大量の手垢をなすりつけられて、膨張したあげくに「感性」と同じような葵の御紋的意味不明瞭なことばになってしまったような印象があるのであまり使いたいとは思わない用語のひとつだったりする(誤解されているのか曲解されているのかここも「科学リテラシの啓蒙」みたいなものを目的にしているとか捉えられがちだけれども、何度も云っているようにそんなことはまったくない)。

まぁそんな御託はともかくとして、この方は多分もともとふつうに使われる意味での高い「リテラシ」をお持ちなんだろうなぁ、と思う。なので、そう云う方が江本勝の言説を受け入れてしまう、と云うことが不思議に感じられる。

確かに経験上、自分が暗いオーラを放ってしまっていると、自分に対峙する人もそういう暗い表情になってしまうということは、よくあることです。逆に自分が笑っていると相手も笑いますし。

そう云うことはもちろんあって。でも、そのことを水に教えてもらわなければわからないのだとすれば、そこにこそ重要な問題が潜んでいる、と思うのだけれど。
で、そう考えると、「水は答えを知っている」の提示する問題は、きわめて文学的であるとも云えるのだと思う。ひととひとのあいだに生じることをそのまま受け入れることができず、一見科学的に見える言説を経由してはじめて理解できたように感じられる、と云う認識の不可解さについて。
上記の引用部分については、この方もそもそも別段水なんかに教えられなくてもお分かりなのだと思う。なのに、この書物の「実験結果」と称するものを援用することによってまるではじめて理解できたように感じられているのだとすれば、それはなぜなのだろう。

この本の批判の対象となっているのは、似非科学だとかいうことよりもむしろ、単に大衆的ベストセラーであるという事実なのではないかと思いますが、そういう見識で批判するのであれば、それ良くないことだと思います。

と云うか、ニセ科学であることと、それが流布していることの両方が問題視されているのだと思うけれど。それ以前にまぁ、大衆的ベストセラーであるという事実が批判される原因となるとはあまり思えない(誰も読んでいないようなら、問題視されることも少ないだろうな、と云うのはある)。

私は根っからの文系人間で理科系には全く精通していませんが、科学では説明のつかないことが世の中にあるということは知っています。

このことは、科学に精通しているひとほどよく知っているんではないだろうか。「科学ですべて説明がつく、と云うことになれば、科学者はみんな失業してしまう((c)かも ひろやすさん)」と云うことでもあるので。
と云うかこの辺り、問題が理科系的な部分にだけあるわけではない、と云うことについては、apjさんの水伝:科学だけの問題ではないを嚆矢として、dlitさんの水からの伝言関連記事目次からリンクされている一連の論考、朴斎先生の水に芸術はわからないなんかを参照していただく機会があれば、いくつもの示唆が得られると思う(マスターピースにはことあるごとにリンク)。少なくともwowowow0821さんが、「ひととひとのあいだにあるもの」としての「藝術」に関心をお持ちで、真摯に向き合っていらっしゃる、と云うことなのであれば。