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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

発端と帰結、見えてくるもの

おとといのエントリで触れた政治系ブロガーの「水騒動再燃」に関連して、この騒動を(外側から)丹念に観察しておられた玄倉川さんが「水伝」騒動とリベラリズムおよび「所属する」リベラル、「なる」リベラルと云うエントリをお書きになっている。

これらのエントリは、騒動の周辺にいたとあるブロガーの「リベラリズム」認識に関して書かれたものであり、その主題そのものについてはぼくがなにか云うべきようなことではない。ただ、

水葉氏が反知性の人であればそれはそれでいいけれど(本当はよくない)、彼女の運動論的な考え方とは矛盾するように思う。知性によって他者の理と自分の利を適応させてはじめて運動が成功するのであり、「反知性でもいいじゃないか、にんげんだもの」というやり方ではあちこちから矛盾が噴出して空中分解するだろう。

と云うような玄倉川さんの理解には深く同意する。
で、なんか似たような構図を、ぼくなんかは日常的に見てきたような気もする。そう考えると、この騒動はもともと「考えなしにニセ科学にひっかかってしまった」んじゃなくて、ある種共通する心性に基づく必然のようなものが感じられたりもするのだった。

とは云え実際のところこの騒動に向かうスタンスとしては、上でリンクしたおとといのエントリのコメント欄にある黒猫亭さんの考え方がまっとうだと思う。ついでに云うとまぁ、こう云うひとたちの望むような政治体制が実現したら、それは少し前の東欧とか東南アジアに見られたような縁故主義の横溢するものになるんじゃないだろうか、みたいな気もする。それだけ。