Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

結論が出る前に

ココロ社さんの「考えない勇気」を持てば、頭がスッキリ!と云うエントリを読んで、スッキリできずになんだかもやもやしていたところに、なんばりょうすけさんが 『水伝』についてココロ社さんにマジレスと云うエントリで入れたツッコミを読んでちょっとすっきりした。

ココロ社さんの元エントリにある、

ということで、何らかの問いが出されたときに、結論から逆算して、それについて考える必要があるかないかをざっとイメージしておくと、時間の節約になります。

と云う考え方は、それ自体間違ってはいないと思う。でもそれはたぶん、結論が間違っていない(絶対的に正しい、と云う意味じゃなくて、その結論が導き出された自分の内側での道筋が間違っていないと「自分で」思える程度に)と云うのを前提にできるときに限って云えることで。——と云う部分の議論は、ココロ社さんは丁寧に外しておられる(ので、読み流すとその存在に気付かない。ぼくは気付かなかった)。

ここの部分はなんばりょうすけさんが、

水からの伝言』の問題は、元々は学校教育の現場に持ち込まれたのが発端です。しかも子どもの親が困ってブログで訴えたのが問題化の発端だったと記憶しています。これがなぜ問題かと言えば、子どもに対して科学の考え方について間違った理解を促すからです。道徳的にもなぜ人に優しくするべきなのかを考えさせるという意味では完全に的外れな話です*2。このように、教育が求める結果は「結論を導く考え方を身に着けるさせること」ですから、そういう意味では「結論」が違うと結果は変わってくるのです。

とお書きになっている。
そうしてまぁ、ぼくが一貫して論じているのは「どうやって(より妥当な)結論を導き出すのか」だったりするのだった。