Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

Confession

個人的には以前からこっそり(不熱心な)ファンであるところのsho_taさんの「学問」、「科学」という名の信仰と云うエントリを読んだ。
議論の主題が違うので、トラックバックなしでつまみ喰い的に言及。

こちらのエントリには前段として文学とは何か?、後段の追加として相対主義者は相対主義の限界を見ることができるのか? それもまた相対主義が見せる幻想に過ぎないのではないか?と云うエントリがある。そこの議論の流れは、例えばぼくがここで語っていることに近づいてきたりはしない。それでもそこで語られている問題は、そしてそこにある示唆は、どうしてもこのエントリこのエントリを通じてあれこれ考えた(そして議論させてもらった)ことと近接しているように感じられる。

 なぜか。

 私なりに精一杯掘り下げて原理っぽくて本質主義っぽい回答を探すとすれば、「そうすることを好むのが人間という生き物だから」となります。

 

「人間」とはいかなる生き物か。

 さかのぼればそれは、ジャングルからサバンナへ「好奇心」でもって出ようとした者たちです。まだ見ぬ知らない土地へ。そこには何かがあるはずだ。そうして2足歩行を手に入れ、地球上の隅々まで住めるように適応し、前頭葉を肥大させ(ある種の奇形となって)、現在のかたちになった。我々はその末裔であります。

 さらに人類は「文字」を手に入れ、「社会」を形成します。

 コミュニケーションを重ね、知識と情報を積み重ねてきた。

 それが相対化できるかどうか。

 できるかできないかでいえば、できます。陳腐な例で恐縮ですが、そうした理屈でもって(世界の中心を気取っていた)西欧社会は先住民を虐殺し、原爆を作り、ホロコーストを経て、地球を汚してきた。

 しかし同時に「そうしたことが人間の定義である以上、末裔である我々はその連綿と継がれてきたバトンを次の世代に渡す義務がある」とも、同じ程度の説得力で言えるわけです。

長文の引用になってしまったけれど(そうして、ここでこの引用部分を読み解いたり、力ずくで自分の議論の文脈にあてがったりすることは回避させてもらうけれど)、このあたりについてどんなふうに思いをめぐらせるか、が、この場所(そしていくつかの場所)で各論的に論じられていることの根底に居座っている、ような気がする。このことについてぼくは自分の立ち位置を述べることができる場所にはまだたどり着いていないし、ひょっとするといつまでもぐるぐる回り続けるだけで、たどり着くことはできないのかもしれないけれど。

 ある種の考え方、思想、論考は、それが優れているだけに、一見「なんにでも使えてしまう」ように見えてしまいます。マルクスの考え方も、フロイトの考え方も、ボーヴォワールも、レヴィ爺やポパーの考えでさえ、「それが有効な場面と、そうでない場面がある」ということを常に意識しておくこと。

このあたりが、最近論じられる頻度の高くなってきた「文脈」に関わる議論ともつながってくるんだろうな(こう云うことを書くとひどく阿呆みたいに見えるだろうな、と云うのは分かるのだけど、まぁ以前から云っているとおりぼくの頭はこの程度しか血が巡らないので仕方がない)。