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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

「救い」の意味は

そう云うわけで遅ればせながら信じぬ者は救われるについて書いたのだけれど、この本について瀬名秀明さんがその読書録で信じぬ者は救われると云うそのままのタイトルでレビューをお書きになっている。

このレビュー、半分は昔生じた「パラサイト・イヴ論争」に関わりのある内容になっている。この論争についてはぼくはだいぶ後になって知ったことだし、kikulogの方でも「信じぬ者」と瀬名さんとパライブの頃と云うエントリがあがっているので、ぼくがここで語るべきことなどもちろんない(んだけど、この問題の根っ子のところで完全にぼくが無関係かと云うとその辺りちょっと言い切れないような個人的な事情もあって。多分単なるぼくの自意識過剰だと思うし、実際のところは瀬名さんに聞いてみないと分からないし、そんな機会も多分ないとは思うけれど)。

このレビューにおいて、瀬名さんは以前から私がどうしても了承できないのは、実験についての考え方だ、と述べられている。もしこの発言が、「水からの伝言」の主張の質までを踏まえてのものだとすれば、ちょっと違和感を禁じ得ない。

まず、これには長い経緯があるんだから素人が思いつきで意見を述べるのは危険だよ、と相手を牽制している。

これはそう云う話ではなくて。実際に長い議論が存在していて、その簡便なアブストラクトが現時点では存在しないし、この場でその議論の概要を示すのも難しい、と云うだけの意味だと思う。

科学の体をなしていないものに科学的な反証しても意味がない、というのはそのとおりだけれど、ではその他のグレーゾーンにどう立ち向かえばいいのか、という問題に本書は回答を与えていない。

現実的にこの問題にはそんなに簡単に回答を与えることができるものではないし、そのことを瀬名さんが理解していない、と云うのはちょっと肯んじ難い。例えば伊勢田さんの疑似科学と科学の哲学を瀬名さんが未読だとも思えないし、そもそもそのグレーゾーン問題に立ち向かうための姿勢を非専門家に日常的に応用可能な次元で提示するのがそんなに簡単な話だ、なんて瀬名さんが考えているとすればそれは信じ難い話なのだけれど。

だからいくら水の結晶の話が非科学的でも、ふしぎだなと思って実験したいと願う人が出てきたら、その人をきちんとサポートできる社会が必要なのだと私は強く思うのです。その過程で科学を学んでゆけばいい。

このお考えが間違いだ、と云うつもりはないけれど、現実的には実験に先立ってきっちりとまず「その実験の意義を自分で理解しようとする」ことの意味を教えることも同じくらい重要だと思う。そうでないと、「実験で成果を得ること」の意味合いを理解しないまま、ひたすら実験の結果に基づいたアド・ホックな理解が増殖するばかりであるような気がする。

もし自分の子どもが実験したいといい始めたら? 私はその子の好奇心を伸ばしてあげたいと思う。どうすれば実験できるか、いっしょに考えてあげたいと思う。「ありがとう」とそのまま紙を貼る実験はつまらないよ、きみは本当にその実験をやってみたいのかい? と私は質問するかもしれない。でも代わりに、きみの好奇心を満足させるこんな実験ならおもしろいよと提案するかもしれない。

ぼくなら多分、「『ありがとう』って言葉が大事なんじゃなくて、そこに込められた気持ちが大事なんだと思うよ。どう思う?」って聞いたり、「かたちの整った結晶だけが綺麗なものなのかな。『綺麗さ』にはいろんなものがあると思うし、『綺麗さ』を感じるひとによっても違ったりすることはあるんじゃないかな」と云ったり、「見た目に綺麗なものが正しくて、整ってないものは悪だ、って、そんな考え方でいいのかな?」と訊ねたりすると思う。そして、「きみはこの実験で、何を確かめようとしているの? なにを自分が知りたいと思っているのか、考えてごらん」と投げかけるんじゃないかな。まぁもちろんこの辺りは、

そしてもうひとつ。大切なことがあります。なぜそもそもこの実験をするのか? なぜこの実験が必要なのか? そういうことを考える力も、また実験力だろうと思います。「ありがとう」と紙で貼って水の結晶をつくってみる実験はばかばかしい、と思えるようになるには、なぜ自分はこの実験をするのか、それが語れるように成長してゆくことが必要となります。最初からそんな能力を持っている人はいません。学習して、身につけてゆくものです。だからこそ私は実験する芽を摘んではいけないと思います。

ともお書きになっているので、瀬名さんもお考えでないわけではないのは分かる。でも「水からの伝言」については、それが実験によって実証された事実だ、と云う主張が前提にあるわけで。
こう云う主張はいくらでもできて、そのつど疑問を抱いた人間がより厳密な実験で反証すべきだ、と云うのが社会の趨勢となれば、有限な社会的リソースをそちらに配分しなければいけなくなってしまう。これはある意味経済学的(≠経済的)発想に基づく考え方で、瀬名さんはそう云う考え方自体を批判しているのだろうけれど、それでも現実として存在する。

現実として存在するそれらの事柄から目を背けず、しかもそれらに振り回されずにいること。これはもちろん簡単じゃなくて。

マーケティングは、まあやったほうがいいでしょうが、正直なところ自分自身でそのへんに深く足を突っ込もうとは思わないかな。マーケティングは結局のところ、本書の著者らが悩んでいる二分法の話になってしまうから。

もちろん個人のスタンスはさまざまだし自由なのだけれど、どうしてそこに足を突っ込まざるを得ないのかと云う点については少し読み取っていただいてもいいのじゃないか、なんて思ったりもする。

云いっぱなしのあげあし取りで、このエントリは留めておくことにする。おそらく瀬名さんの目に触れることもないだろうし(そんなこともないかな?)。
ただひとつ思うのは、例えばニセ科学の問題について論じるにあたって、才能の質としても立ち位置としても、本来菊池さんより瀬名さんの方が適任であるはずだ、と云うこと。もちろん個人の問題意識の在処について余人がとやかく云うのはお門違いなのだけれど、残念だなぁ、なんて思うのだった。