Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

信仰のなし得ること

相変わらずエントリのタイトルが上手く思い付けない。

先だっても触れたkikulogの江原啓之が旭川大学の客員教授になる件と云うエントリのコメントが100を超えている。トラックバックも(ぼくのを含め)いくつか来ていて、そのなかのひとつ、anbaiさんのもう、憤りで目が覚めましたとも。と云うエントリを読んだ。

ぼくが江原氏を許容できない理由のひとつに、既存の宗教からイメージだけを借りて、そのイメージを自分の都合にいいほうにねじ曲げて使っている、と云う部分がある。

kikulogの上掲のエントリのコメント欄に、「看護師K 」を名乗るひとが登場している。

そこには、確実にスピリチュアルの存在が必要なのです。
学生だけでなく、実際に死に直面する現場で働く人も講義を受けらるものなら、受けたいとさえ思います。

スピリチュアルの存在が必要だと思っているのは、誰なのか。そこには、「『水からの伝言』を必要としているのは実は教師だ」と云うのと同じ構図がありはしないか。

否定する方が、ある日突然に癌の告知を受けたとしたら、その時に何を思うのでしょうかね?  
受け入れられずに苦しむのではないでしょうかね。
人は必ず死ぬのですよ、老いも若きも関係なく死はいつも隣合わせです、死生観を持つことの大切さを考えたことあるんですかね。

安い死生観ですむ患者さんならまぁどんなものでも間に合うのかもしれないけれど、その患者さんが確固たる信仰を持っていたら、どうなるか。そのときに、江原氏の手前勝手なスピリチュアルなんとかで間に合うのか。江原氏のてけとーな宗教解釈と、患者の宗教観が対立したときにはどうするのか。
もちろん江原氏が担当すると云われている「生命倫理」だの「コミュニティ福祉への招待」だのって講義では、宗教を教えるわけではない、と云う話もあるだろう。でも、それは同じ人間から発される言葉で構成されるのだ。そして、いずれも(かたちのうえでは)真摯な言葉として発せられている、と云うことになっている。

介護の専門家でいらっしゃるらしいanbaiさんの言葉は、重い。

だけど、それは…例えば学校・施設の成り立ちに関わった人たちにとって、
大変な仕事を成すためのご苦労を忍ぶよすが、またその社会貢献を思い立つきっかけが
「信仰」だったということなのです。それを偲ぶ意味がほとんどであるし、
実際に私のお会いしてきた方々を思い出しますと、敬虔な方であればあるほどに謙遜で、
福祉の本来の目的を
「(特定宗教・思想の)伝道のため」とは履き違えたりしません。

ましてや養成機関がスピ系の人を客員教授で呼ぶなんて、信じられんです。

ところで以下は、これまで書いたことと直接の関係はない。単なる無責任な感想の域を出ないことだ。

フロレンス・ナイチンゲールと云うひとのことを、ぼくはほとんど知らなかった。少しだけ調べてみて、その複雑な生涯についてちょっとびっくりした。なにしろwikipediaの当該項目に記されている肩書きが、イギリスの看護婦、統計学者、看護教育学者。近代看護教育の生みの親。あまり知られていないが病院建築でも、非凡な才能を発揮し、ギリシア哲学についても造詣が深く、オックスフォード大学プラトン学者、ベンジャミン・ジョウェット(Benjamin Jowett)とも親しく交流した。なんて記載になっている。

そして、彼女のなした重要な業績がほとんどすべて、ひとりの「看護師」としてなされたことではないことも、初めて知った。
カトリックであり、その生涯の(偉大なる)活動において「神の啓示」が重要な契機となった女性として思い出すのは、福者マザー・テレサだ。ぼくはこのふたりに、共通点をふたつ、見つけた。

みずからの信仰と、(その信仰に基づいて)みずからなすべきことをいっさい混同しなかったこと。
そして、どちらも地に足の着いた、身も蓋もない徹底したリアリストであること。