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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

習俗

TAKESANさんのゲーム脳の説明と云うエントリのコメント欄における「なまはげ」議論を引き継ぐ形で、石田剛さんが「なまはげツアー」のサイトで紹介された「声」が示すことと云うエントリを挙げていらっしゃる。この時点で議論に参加すると単に紛糾させるだけになりそうなので、石田さんのエントリに言及するかたちで私見を述べておく。

 なまはげと云う習俗が生まれたのは、それが生まれた時代・社会において合理的だったからだ、と思う。
そして、それはその時代・社会が「未開」だったからではない。

なまはげをしつけの道具とするのは、不合理だと思う。
でも、それは現代社会が進んでいるから、ではない。

なまはげの生まれた、息づいて重要な役割を担っていた時代と、現代。どちらで暮らすのを選ぶか、と云われれば、迷う余地なく現代を選ぶ。意識することもなく空気のように、例えば科学による恩恵を享受しながら暮らすことが可能だから。ぼくのように生命力の弱い個体は、シビアな環境下ではたぶんあっという間に淘汰されてしまう。

でもそれはもちろん、過去の習俗やその背景にある呪術的体系が、現代の科学より本質的に劣ったものである、と云うことではないのだ。それはその時代においては、合理的に社会を営むために編み出されたものだったのだ。そしてそこには、やはりひとの智恵がある。

もちろん現代社会は、呪術とはまた体系を異にするひとの智恵の集積のうえに成り立っている。代表的なものが科学だ。そしてそれはいまのところうまく行っている。もちろん万能ではないけれど、使い方次第でけっこううまく働くことは、例えば単純にこの脆弱なぼくがなんとか生きていけている、と云うことだけで充分証明されている(周りを見ても、ぼくと同じくらい弱いひとは珍しくない)。うまく働いていない部分はもちろんあるけれどそれは使い方の問題で、そのあたりの限定的な意味合いだけに絞って云えば、呪術と変わらない。
結局のところ判断基準をどこに置いて評価するか、と云うだけの問題なのかもしれないけれど。過去を「失われたものがまだ息づいていた時代」として現代を貶めるのも、現代を科学万能として過去の時代(およびその時代から命脈を保っている呪術的なあれこれ)を否定するのも、どちらも考慮に入れるべき要素が抜け落ちた一面的な議論であると云う点においては違いがない、と思う。
(誤解を招きそうなので追記すると、だから科学も呪術も変わりがないとか、科学者も呪術師もおんなじだ、と云っているのではない。これはこれでもちろん、必要な観点が脱落しているために議論のレイヤーがぐちゃぐちゃになってしまっている誤った議論。で、これとおなじ質の誤謬を別の角度からしている、あるいはさせているのがある種のニセ科学)。

石田は、わが子の教育に「なまはげ」も「ばちがあたる」も使わないし使いたくない。わが子には「社会の規範」に *なぜ従う必要があるのか* を、自分の頭で考えて理解して欲しいと、石田は考えている。

社会を構成する個人の多くが、「社会の規範」に *なぜ従う必要があるのか* を考えなくなれば、一旦できてしまった「社会の規範」を、状況の変化にあわせて変えていくことが、難しくなるだろう。

この石田さんの考え方にはもちろん異論はなくて。ただ、一旦できてしまった「社会の規範」を、状況の変化にあわせて変えていくと云う考え方が意義を持ちうるのは、まさにそれが意義を持ちうる社会を背景にしているからだ、と云う認識を欠くと、そもそものスコープに対する認識を違えてしまっていると云う点でなまはげのしつけ効果や水伝授業に安易に頼るおとなたちとおなじ地平に立ってしまうことになる(もちろん、石田さんがそうだ、とはぜんぜん思っていない。ただ、このエントリに限って云えばそう読まれうる言説でもある、と云う話)。

なんかこう云うふうに粗雑に「社会」と云う言葉を使うと、merca論宅さんに叱られそうな気がだんだんしてきたけれど。
たぶんもう1点、「過去の社会と現代社会がどんなふうに地続きで、どんなふうに断絶があるのか」と云う論点もある気がする。でもちょっとちゃんと論じられる気がしないのでここまで。