Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

歩ける範囲

Dr-Setonさんの自滅する地方 〜エウルの夢、幻のゲルマニア〜と云うエントリに、ひどくぼくの実感に近いことが書かれていて面白い(続編回答篇も上がっている)。

仙台はもともと歩いてなんでもすませることのできる(Dr-Setonさんの云い方を借りればとてもWalkableな)都市だった。そしてぼくは片平の大学キャンパスを起点として(ここで学んだことはなくて、駐車場として使っていただけだけど)街のなかを何時間も歩いて過ごした。

そもそも街中で過ごすのが好きで、歩くのが好きで、といった性分で。だから東京に住んでいたときも、歩くことが基本だった。住んでいた三鷹と隣町の吉祥寺、下北沢、代官山〜恵比寿〜渋谷ライン。仕事絡みでも歩くことを好んだ(麹町から四谷を経由して新宿まで歩いたことがある。いや単にのんびりと仕事をしていたわけじゃなくて、そのころの仕事に関してはそうする合理的な理由があったんだけど)。

どうやら歩いて楽しい町、というのはある程度の法則があるのだ。


・巨大すぎない店舗や家並みがあること

・厳格にゾーニングされていないこと

・その店舗や家並みが路に面していること

・路の両脇が自由に行き来出来ること

・つまり、路に車が少ないこと

・先が見通せないように、路が適度に入り組み、くねっていること

三鷹の駅前なんかもそうだ。そして、ぼくの街に隣接する一番町一丁目〜二丁目近辺も、比較的そう。だからぼくはこの辺りに住んでいる、と云う部分も多大にあったりする。

そして、そう云う地域には、いろいろなものが集積される。その地域に暮らす人間から生じてくるもの。デベロッパやテナント企業のマーケターのお仕着せではないものが。

半年だけ群馬に住んでいたときに、唖然とした。
ひとが道を歩かない。歩いていて遭遇するのは高校生以下のこどもか、工場に働きにきているブラジル国籍のひとたち。それ以外のひとたちは、車で移動する。
そして、そのひとたちの共有する話題、関心事がどのようなものか。

仙台もまた、危うい状況にある。なんと云うか、市街地の郊外化、とでも云うような。
一番町二丁目から四丁目にかけて、ぼくの記憶では7軒の書店があった。いまは2軒だけ。あとはパチンコ屋とか、ブランドショップとか、ドラッグストアに化けている。そこを歩いているひとたちの姿は、昔とは裏返しの意味で適度にお洒落で、安っぽく、本質的な意味で昔より田舎臭い。

一番町二丁目のまんなか辺りに、バラックの建ち並ぶ2本の横町がある。通称壱弐参横町(いろはよこちょう、と読む)と呼ばれるこの辺りは、昔ながらの安呑み屋と並んで、若いひとたちが洋服屋や雑貨屋を営んでいる(以前のエントリで書いた、若い友人のやっているインディアンジュエリーの工房もここにある関係で、ほぼ毎週一度は通る)。この横町を典型として、1丁目から2丁目にかけては、自分の属するカルチュアに自覚的なひとたちが小規模な店を開いているケースが多い。建物が古くて家賃が安いので店が開きやすい、と云うのもあるんだろうけど、少なくともひとが多いばかりでどんどん田舎臭くなっている3丁目や中央通と較べて、そこには遥かに何かを生み出しうるような空気がある。
それは、その辺り(と云うか、生活実感としては「この辺り」)が格段にWalkableであることと無縁ではないと思う。

みんな、頑張れ。イオンのマーケターに、森ビルに都市を支配させるな。自分たちのカルチュアを明け渡すな。

2/13追記:続編へのリンクが抜けていたので追加しました。