Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

表現者

十代の終わりから二十代のはじめにかけてろけんろーるからどブルーズにまで駆け上がってしまったぼくとしてはある種の日本化されたヒップホップやR&Bはけっこう肌が合わなくて関心を持てないのだけれど、そんなひとりである倖田來未の発言が先週末から取り沙汰されている(J-CASTニュースの該当記事はこちら)。これについてはそこそこ批判も揃っていて(kikulogでも倖田來未舌禍事件または想像力の欠如についてと云うエントリがあがっている)まぁそれほど語るべきことはないのかもしれないけれど、2点だけ。

 まず間違いなく云えるのは、彼女は表現者としては致命的に言葉を大事にしていない、と云うこと。

生業が音楽に乗せて言葉をうたうことなら、自分の発する言葉が何を伝えるのか、誰を喜ばせまた悲しませるのか、と云うことには鋭敏であるのが当たり前だと思う。メロディやリズムの方が大事だ、と云うことはもちろんあるだろうけど、だからうたう言葉の内容までは考えない、と云うのは表現者としてありえない。それは自分自身の表現を、そしてそれに触れるひとたちをあまりに軽んじている。

まぁこのあたり、「水からの伝言」に共感を示していたって話を聞いたころからなんとなく感じていたことではあるけれど。そんなに綺麗な結晶が好きなら、ひとに向けてうたうのをやめにして、お水に聴かせるための歌手になったらどうか、なんて思う。
聞き手にどう響くか、と云うことをちゃんと意識して選ばれたうえでうたわれる言葉しか、ぼくは聴きたくない。

もうひとつ。
彼女を擁護するネット上の言説を見ると、だいたいが論拠を「悪意の不在」「イノセンス」に置いているような印象がある。
このあたりなんかちょいとデジャヴで。どうも善意・悪意を軸にものごとを判断する心性ってやっかいだよなぁ、なんて思う。何度か云ったことがあるけれど、ぼくはイノセンスはなにひとつ免責しない、と考えているのだけど。