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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

もやもや

Genさんの疑似科学批判者は「何を批判しているか」自覚せよと云うエントリを読んで、非常にもやもやしている。もやもやしたままで書く。
以下に書くことは、本来ぼくが書くべきことではないことだ、と云う自覚はある。恥晒しだ、と云う自覚も。だから、ここから先は嘲笑覚悟だ。

このエントリは疑似科学を批判する人は謙虚であれと云うエントリに対する追記として書かれたもののようだ。で、この元のエントリを読んだときに、相当に困惑した。

たとえば、疑似科学を信じている人たちを、「トンデモさん」と呼ぶ人がいる。こりゃ、あかんやろ。「トンデモさん」というとき、疑似科学批判者は、批判対象の全人格を否定してしまっている。

ぼくは一度も「トンデモさん」と云う用語を使ったことはないはずだ。だから、これはぼくのことを云っているのではない、と捉えることもできる。自分のことを云われているような気がするのは、単なる自意識過剰だ、というふうに。

科学は「どう生きるべきか?」「どのような人間が優秀か?」「どのような人生がより価値が高いのか?」を絶対に明らかにしない。

これはぼく自身、けっこうくどくど云っている。もちろんぼくだけじゃなくて、ほとんどのニセ科学批判者は(ぼくの知っている限り)この見解に異論はないはずだ。

批判対象(疑似科学を信じている人たち)に対し、むしろ「あなたの生き様は認めますよ」という肯定的なメッセージを発する必要があるのではないか。

なぜこう云う結論になるのか分からないけれど、ぼくの批判対象はおおむね疑似科学を信じている人たちではない(だいたいはそこにロジックをくっつけて広めようとしているような言説を行っているひとたちだ)ので、やっぱりこの方の言葉はぼくに向けられたものではない、と考えるのが妥当なのだろう、とか思ったりする。

でも、追記となるエントリを読んで、やはり戸惑ってしまう。

ところが、2の道徳的・政治的な批判については、白黒(批判が正当かどうか)をはっきりつけられる根拠が存在していない。この部分は、人文学的な「解釈」の領域です。あるいは、どちらの方が社会の支持をより集めることができるのかという、政治的パフォーマンス(言説バトル)の領域です。

これについては同意することができる。政治的パフォーマンスなんて呼んでもらえるほどのものではないけれど、ぼくがここでものしている言説はそう云う性格のものだ。このあたりで、ひょっとしてこの方の書かれていることはぼくにも関係のあることではないのか、と云う気がしてくる。
ところが、この言葉に続けて、

だから、感情的になりやすい。「疑似科学(を主張すること)によって多くの先人や現在科学に携わっている人々の人生が否定されてしまうこともある」(参照)と憤る気持ちや、「怪しげな話をして人を惑わしてはいかんのではないのか」「法的にも道徳的にもどうなの」(参照)と感じる気持ちはわかりますが、これらは科学そのもの(事実の領域)とは無関係であることを確認してください。

と云う記述がある。感情的になりやすいからどうだ、とおっしゃっているのだろう。「おまえの言説は感情的で有害だ」と云われているのなら、あぁそう読まれる可能性も充分あるなぁ、なおいっそう気をつけなきゃなぁ、と反省することはできるけど(ただ、この時点でも依然として「おまえの言説なんて問題にしていないよ自意識過剰野郎」と嘲笑われる可能性はもちろんある)。

つまり、「市井のふつうの人」が疑似科学を批判するとき、「科学のモノサシ」は彼らの批判の正しさを保証しないのです。「2.道徳的・政治的な批判」と、「科学のモノサシ」は、無関係です。すなわち、「2.道徳的・政治的な批判」を行うときには、「自分たちが絶対に正しい」ことを保証する科学的な根拠は存在していません。

これはある意味当たり前のような気がするけれど、そう思えるのはぼくがGenさんの伝えたいことを理解していないからなんだろうか。ぼくの言説は「科学のモノサシ」がその言説の内容を絶対に正しいと保証してくれると云う思い込みに支えられたものなのだろうか。そんなつもりはない、と云うのは単純にぼくが無自覚なだけなのか。そうかもしれないけど納得しかねる。

自分の主張は、疑似科学批判側と疑似科学信仰者のあいだに芽生えている相互不信というかディスコミュニケーションを改善するために、「2.道徳的・政治的な批判」において、疑似科学批判者側が「自分たちは絶対に正しく、有能だ」と思う気持ちを封印して、より対話的な態度を取ろうではないか、ということでした。あるいは、「2.道徳的・政治的な批判」のトーンを下げることによって、「1.事実のみに関わる純科学的な批判」を通しやすくなるのではないか、ということでした。少なくとも、科学的手続きに正しさを保証された「1.事実のみに関わる純科学的な批判」と、絶対的な正しさは保証されない「2.道徳的・政治的な批判」を、自覚的・意識的に分離させて感情を鎮めようではないか、ということでした。そしてできれば、「2.道徳的・政治的な批判」を行う際には、ニヒリズム(「生きる意味」の喪失)の問題を真剣に考えて欲しい、ということなのでした。

列挙してみると、

  1. 疑似科学批判者は「自分たちは絶対に正しく、有能だ」と思っている
  2. 意義のある言説は「1.事実のみに関わる純科学的な批判」のみであり、「2.道徳的・政治的な批判」はその機能を阻害している
  3. 「2.道徳的・政治的な批判」感情的に行われている(従って妥当性はないし、実効性にも乏しい)
  4. ニヒリズム(「生きる意味」の喪失)の問題については「2.道徳的・政治的な批判」を行っている論者は意識していない

と、これだけのことが前提にされているように読める。で、とりあえずぼくはこの全項目に対して異論があるし論陣を張る覚悟もあるのだけれど、でもここで「おまえのところのど田舎過疎ブログなんて眼中ないよ、すっこめナルシスト野郎顔じゃねえぞ」とか云われる可能性もあるし、そう云われれば恐れ入ってすっこむしかない。

結局、もやもやしているのはGenさんの言説から学んだり警告を感じたりすべきなのか、自分とは関係ないこととして気にしないのが正しいのか、と云うのが分からないからだったりする。

ぼくがここで誰かの言説に対して言及するときには、まず確実にそこにリンクを張る。トラックバックも飛ばす(届かないときも、届いても受けてもらえないときもある。もちろんそれは完全にトラックバックを受けた側の自由な判断による)。で、「誰の」「どう云う言説」に対して意見を述べているのか、できる限り曖昧さが残らないようにエントリを書く(文章力のつたなさのために充分に伝わらないこともあるけれど)。それは暴力的で、感情的で、攻撃的で、「上から目線」のものに見えるかもしれない。でも、受け手が「こいつがどこまで分かって書いているのかわからない」「なにを云われているのかわからない」と困惑することはない、と思う。
そして、反論を、批判を、なによりも対話をぼくは歓迎している。折りに触れて言明すること以外に、このことを示す手段を持たないけれど。

正直、Genさんのこういう書き方(「何を批判しているか」自覚せよと迫りつつ、自分が何を批判しているかについて曖昧な部分を残しておくスタンス)が、非常に高度な政治的手法を用いたものだ、と考えることもできる。「誰のことだとは云っていないけれど、身に覚えのある奴はとりあえず黙っとけ」みたいな感じで。目的は分からないけれどそういう意図があったとすれば、少なくともぼくがこの見苦しいエントリを書くのに感じた猛烈な抵抗感からしても、戦術としてはかなり効果的だったと思う。
——と云うのはもちろん、下司の勘繰りに類することだろう。ただ、ひとに「批判のしかた指南」をできるくらいのスキルをお持ちなら、勘繰られないような書き方もできただろうに、なんて考える。