Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

科学への「信頼」

ここの前のエントリに対するアンサーと思しきトラックバックが届いた。庄内拓明さんの「波動測定器」 を巡る冒険と云うエントリ。

別に私は 「科学」 にも 「疑似科学」 にも、全然 「当事者」 としてなんかタッチしてないのだから、どちらにも義理立てする必要がないのである。

ここで云う全然 「当事者」 としてなんかタッチしてないと云うのは、はたしてどう云う意味なのだろう、とか考える。

こう言っちゃなんだが、私はそれほど 「科学に信頼をおいている」 というわけじゃない。(いや、それじゃ語弊があるから、「科学以上に信頼をおいているものだっていくらでもある」 ご言い換えさせてもらおう)

それでも科学的法則は、別に私が信頼をおこうがおくまいが、信頼のおきかたが中途半端だろうが、絶大な信頼をおいている人と区別なく、いつもは淡々と働いてくれているので、ふつうの生活はできているのだけれどね。

ぼくの文章がそれほど読みづらいのだろうか。
ぼくは庄内さんがこの部分にお書きの、まさにそういう姿勢を指して、科学に基本的な信頼を置いていると云っているのだけれど。そして、この時点で(意識していなくても)この方も「科学」 「当事者」 だ。

ふつうの生活ができている。特に意識しなくとも、科学とそれをベースにした技術は特にこちらの日常の視野のなかでその存在を主張することなく、確実に暮らしを支えてくれている。何も疑わなくても、いちいち確かめなくても。意識しているかどうかは別にして、こんなふうなスタンスで暮らしを営むことを、ぼくは「信頼を置いている」と形容した。
意識していないがゆえに、当然のことだと思っているがゆえに、むしろその信頼の度合いはぼくなんかよりもはるかに深く、ゆるぎないものなんだろう、と感じる。そう、その信頼を毀損しうる行為をいくら行おうと、言説をいくら振り撒こうと、科学と科学技術はふつうの生活をいつまでも淡々と支え続けてくれるに違いない、と云ったような、きわめてナイーヴで留保なしの信頼。こう云う信頼の仕方を、日本語ではどんな語彙で表現するのだったか。

前のエントリで、自分の古いエントリにリンクをした。リンク先のエントリのコメント欄には水処理に携わる方がお越しになって、そう云う職業に就いている人間にとって「水からの伝言」言説がどのように感じられるものかをお書きになっている。

東京都の水道水には悪い波動が蓄積していて、江本勝によるときわめて汚い結晶をつくるそうだ。でも、それは安全に飲むことができる(少なくとも、飲むことによって急激な体調の悪化を招くことはない)。それは世界一の平均寿命を支えている。そして、その水質を維持しているのは、淡々と働いてくれている科学技術だ。背景にある(だれかの研究の成果としての)科学理論と、それに則って水質の管理に従事されているだれかだ。
水道水が飲めない地域なんて、世界中にいくらでもある。以前にも書いたけど、日常のなかに神への信仰が根付き、スピリチュアルな要素が生活にしみこんでいるバリ島の水道水は「飲めない」のだ。その宗教儀礼の非常に重要な部分を、水が担っているにも関わらず。

ぼくは庄内さんの文章に、非常に「知的」な印象を受けた(少なくともぼく自身のそれよりははるかに)。なので、この程度のことがご理解いただけない、とは思えない。
前のエントリのコメント欄からリンクしたdlitさんのいくつかの疑似科学批判批判?についてのいくつかの違和感と云うエントリに書かれている内容とも一部関連する話ではあるけれど、この辺りなんか不思議な感じがする、と云うのが正直なところ。充分な知性をお持ちの常識人であるはずの方が、どうして、みたいな。

ついでに書いておくとぼくはこの場所で、継続的にニセ科学批判をしている人間としてはおそらく誰よりもしつこく、くどくどと「科学の価値観で評価できない種類の事柄の重要さ」について述べている。もちろん全部読めなんて云う気はさらさらないけれど(長いし多いしめんどくさいし)、でも例えばぼくを「科学主義者」と捉えて批判するなら、そこを踏まえてもらわないとまったく実効性のない批判もどき(と云うか難癖)にしかならない。藁人形がふくらむと厄介なので書いておくけれど。

以下は蛇足。
警察は多くの不祥事を起こすけれど、だから盲信はできないけれど、おおむねぼくたちの生活における秩序を守ってくれている。警察に対して挑発と反抗を繰り返す暴走族たちの生活についても。ぼくは暴走族は嫌いだけれども(単車乗りなんてみんな似たようなもんだろ、と云われたら返す言葉もあんまりないけど)、まぁ、若さゆえのナイーヴさだと考えればその「反抗」とやらは感情的には許容できなくもない。
逆に云えば、許容できる根拠はそれくらいしか見つからない、と云うことでもあるのだけれど。