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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

ドローン

玄倉川さんの「水からの伝言」とカードの城と云うエントリを読んだ(いつもブックマークありがとうございます)。

 今月に入って、年末年始に「政治ブログ」周辺で起きた「水からの伝言」騒動に関係するエントリを3つほど書いた。基本的には背景に呪術的色彩を色濃く持った内乱のようなものでぼくとしてはアウトサイダーだったのだけれど、それでもこれほど頻繁に触れたのは、ぼくの問題意識の中心であるところの「ニセ科学を受け入れてしまう心性」と云うもののある種典型的なケースに見えたからだ。

ぶいっちゃん氏の現在の態度はつまりこういうことである。

 「『水伝』は科学ではなく、科学の名を騙るインチキであることを認める」
 「だがそれは『どちらでもいい』ことだ」
 「『水伝』に共感し、肯定的に伝えるのは良いことだ」

私にはインチキと嘘を「愛」という綺麗事の言葉で正当化しているとしか思えない。
要するに偽善である。

ここにひとつ重要な点があって。偽善は、善意から生じるものなのだ。
おそらくたんぽぽさんへの云わば逆批判が「そこに悪意がある(ように見える)」ことを足がかりにするものが多かったのは、共有する前提として「善意を重んじる(それが偽善であろうとも)」と云う心情が共有されているから、なんだろうと思う。
偽善が悪いとはあまり思わない。ただ、当事者が「偽善たりうる可能性」を疑わない(もしくは問題にしない)ナイーヴな「善意」はしばしば危険だ。それはたやすく地獄へのペイヴメントを構築する。そしてそう云う自省の欠如した姿勢は、言説によって社会になにかをなそうとする場合に、もっとも忌避されてしかるべきものではないか。そのような方向性を持つ集団は、警戒されてしかるべきではないか。

ぶいっちゃん氏自身が「水伝」のインチキ性を知りつつ「水伝」の主張を肯定しているのである。そこには明らかなごまかし、知的・道徳的不誠実が存在する。

そして、この不誠実は、あまたある(そして日々生産されている)「人体の70%は水なんだから」言説とおなじ種類のものだ(いちいち挙げるのはやめておくけれど、ここの「世間」カテゴリで言及したニセ科学的言説の当事者たちの反応を見てみればわかる。「云いたかったのはそんなことじゃない」「もっとおとなになれば分かるよ。学生さん?」)。
重要なのは「ほんとうに信じているかどうか」と云う部分ではないのだ。「信じていないけれど、都合がいいからいい」と云う心性のほうが、往々にして問題なのだ。
とりわけそれが、同調圧力を伴って発揮される場合に。
ぼくは「馬脚をあらわした」と云う語彙を使いたい。で、おそらくそのことは、彼らの言説に触れる側の人間からしてみれば、いいことだったんだろうと思う(当事者の方々がどう感じているかはともかくとして)。

「水伝」がインチキであると知りつつ受け入れ、お互いを「応援」し「共闘」する人たちの道徳的退廃を見ると寒気がする。
嘘のレンガを偽善のシックイで固めた城に住むのは裸の王様だけで充分だ。政治性を自認するブログの書き手が裸の王様を真似るのは滑稽である。しかも、彼らの城はたんぽぽの葉を揺らす程度のそよ風にも耐えられない「カードの城」なのだ。

そのようなひとたちが頼るのが、つねにニセ科学である、と云うことではもちろんないけれど。ニセ科学を受け入れてしまうひとたちには、多くの場合このような心性がドローンとしてあるんだろう、と云うくらいまでは云ってしまってもいいような気がする。