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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

「ものがたり」を選ぶこと

年末年始にまたがった一連の「一部の政治系ブロガーによる『水からの伝言』騒動」でいろいろと考えたことがあるのだけれど、リンクを貼って言及したりトラックバックを送ったりと云うことに対してはそのひとの所属する文化圏によっていろんな捉え方があるようなので、いくらか腰が引けていた。ただ、とりあえず「話題は他人事ではないけど立ち位置としては外側」の人間として、今回の騒動について少しだけ思ったことを書いておくことにする(コメント欄にお越しいただいた当事者の方のためにも)。ぼくは多分この騒動の当事者のみなさんとは違う文化圏に属しているので、あさっての方向からの見解になるのはご勘弁いただくとして。
今回大量にリリースされた「騒動」関連のエントリのなかで一番重要な視点を提示していると思ったのは、sivaprodさんの「共感」という「ものがたり」と云うエントリだった。

アウトサイダーなのでいきなり醒めたことを云ってしまうと、多分政治系ブログと云うのは、なんらかの実効を挙げることを目的としているんだろうな、と思う。そうするとまずは数が必要で。で、そのためには団結だの共闘だのはまぁ、重要な要素になってくるんだろうな、なんて理解する。そのことの是非はひとまず問わない。

でも、共闘するための「正しさ」はもちろん必要で。ただ、数を集める過程で「何が正しいのか」みたいなことを悠長に考えている余裕はないのかもしれない。

”リベラル系ブロガー”たちは、Bさんの「知」による指摘を「共感」という「ものがたり」で拒否したのではなかったか。

もちろんできるだけ多くのブロガーを糾合するためには、知的誠実さよりも「ものがたり」のほうがツールとして高性能で(政治に興味があるひとなら、ひとびとがどのように動かされてきたか、についての歴史は踏まえているだろうし)。
ただ、そのためには(たとえ方便でも)「ものがたり」は「真実」である必要がある、はず。少なくとも、糾合されるひとたちが信じることができる程度には。

だから多分、安易に「水からの伝言」にとびついたのはまずかったんだろうなぁ、と思う。そこにあるのは、あまりにもあからさまに「都合のいい真実」だから。それを「ものがたり」として選択することが、その選択の意図まで透かしてみせるほどに、あからさまな。

水からの伝言」が提供する(信じることによってのみ成立する、誠実な思考を拒むことによってのみ成立する)「ものがたり」を採用したのは、この場合の目的を達成するためには適切ではなかった、と云うことだろう。ツールとしてニセ科学を選び、その選択の不適切さを糊塗せざるを得ない状況になったために、「誠実さ」を示す機会を逸したことが、ちょっとした「騒動」につながったのだと思う。
まず最初の段階でニセ科学「ものがたり」として選んだこと(これはその時点で、「誠実に考える」ことを怠った結果だ)。そしてその「ものがたり」の選択によって、結果的に知的誠実さよりも目的を重んじる態度が表面化する結果となったこと。これらは不幸といえば不幸だし、本質があらわになることによって「本当の同志が誰なのか、その同志はどんな要素を軸に『共感』しているのか」と云うことがはっきりした、と云う点では(他人事としては)そう悪いことでもないのかも知れない。

こう云った辺り、例えば同じような視点で同じようなテーマを論じているひとたちとも日常的にきったはったを繰り返しているぼくなんかからすると、おそらくどうやってもほんとうには「共感」できない部分なんだろうなぁ、なんて思うけれど。