Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

ただ一歩を

踊る新聞屋-。さんの「素人の感覚」と旧社会党的「台所感覚の政治」の耐え難い緩サと云うエントリを読んだ。

 ここのところ、一般人がニセ科学について考える意味、コモンセンスでニセ科学を判断する意義、と云ったことにまつわるエントリを書くことが多い。自分語り臭くて嫌ったらしいなぁ、と云う自覚はあるのだけれど、実際のところこれはこのエントリを書いた頃にあらきけいすけさんの言説に触れてあれこれ考えたことが4ヶ月近く経ったいまも尾を引いている、と云うことだったりする(端的にはTAKESANさんのご質問に答えると云うエントリで自分は非専門家だからと言い訳して教えてクン状態になっていると云われたショックを引きずっている、と云うこと)。

なら、専門家が力を貸してくれないのなら、非専門家に何ができるのか。はじめから専門家と同水準の知識を得るために勉強するのか。そんな不経済な方法しかないのなら、逆に云うとこの社会が科学の専門家を養っている意義は大きく減少する、と思うけれどまぁそれはそれとして、自分で出来ることは何かとか考えた結果、臭いとか云われながらもしつこく「コモンセンスでここまでは理解できるはずだ」と云うサンプルを積み重ねてきた(何度も書いてきたけれど、だからぼくは自分が本質的に「ニセ科学批判者」だとは認識していない。非専門家、と云うことだけを自認している)。

素人がその件について意見を述べようとするなら、せめて説明を聞く準備というのがあって当然じゃないのでしょうか。専門書までとは言わないけど、せめて新書の一、二冊でも読むとか、もしくはgoogleでもいいけど。「素人の目線」で言えば、なんでも許されるというわけではないですよ。

そう、それはもう、ただ一歩だ。逆に云うとただ一歩で、単なる素人の目線による錯誤は多くの場合回避できる、はずなのだ。

勘違いしてはいけないし、していないつもりだ。素人は素人で、だからその言説がどの程度のものなのか、と云うことに関してはたかが知れている。専門家と比較すれば、持ちうる影響力もうちの前の歩道に落ちているユリノキの病葉程度のものかもしれない。
でも専門家だって、そのひとの職業上の矜持のありどころによっては必ずしも頼れるわけではない、と云う実例を、やっぱりいくつかは見て来ている。だったら何もしないのか、それともできるかもしれないことをするのか、は例えばぼくならぼく自身の選択で。

ただ一歩を怠ることについて失われるもの、失われる可能性のあるものを、ぼくは何よりも惜しんでいる。