Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

信頼と盲信にまつわるあれこれ

Jackさんの科学というオブラートと云うエントリを読んだ。少し前に触れたFinalventさんのエントリに触発されて書かれたもののようだ。

いちおう、ブログになにか書くと云うことは、表通りに言説を放り出すことで。で、例えばこことか、他にもいろいろあるニセ科学について継続的に扱っているブログなんかでも、そこでの議論が誰かの目に触れることを期待して議論を進めている。

でもまぁここなんかは言葉の正確な意味でネットの辺境だし、ここなんかでこれまで重ねられてきた議論や熟成されてきたいろんな見解なんかはやっぱりなかなか人目に触れないわけで。で、例えばそれよりもFinalventさんの(ご自分でも認められているような、いやこれは謙遜なのかもしれないけれど)やけくそで雑駁な印象のほうが影響力が大きい。まぁこれは力量の違いで、不満を感じる筋合いのものではないんだろうけど。

しかしその陰イオンをマイナスイオンが指すとしても、
それが健康に良いという科学的な実証はされていないということです。

ここで、例えばJackさんはすでに論点を取り違えていらっしゃる。その陰イオンをマイナスイオンが指すかどうかが(多くの場合恣意的に)あいまいにされているので、そもそもが科学の俎上に乗らない、と云う話なのだ。「あるときは陰イオンを指し、あるときは生活のなかでのストレスで失われる電子を補給してくれるもの」だったりするようなものが、そもそも科学的な実証の対象になるのか、と云うことに対する検討が、ここではすでに抜け落ちている。
余談としてお書きになっているけれど、ニセ科学批判と云うのは、実際にこんなレベルから始まっているのだ。

これは一般論にしていいかどうか分からないのですが、
僕は科学=客観的、あるいは正しい、というイメージを持っています。

そして、そのイメージを利用するのが、ニセ科学で。

だから、逆にこれがニセ科学だという主張が科学的であれば、
あるいは、科学的根拠に基づいているように見えさえすれば、
そうなんだと「信じて」しまうということでもあります。

このあたりはちょっと微妙な書き方をされているなぁ、と思う。科学と云うものにいちおうの信頼をおいていれば、これがニセ科学だという主張が科学的である場合には、ニセ科学だと考えてもいいのだと思う。そして、ぼくたちの生活は科学(とその根本的な誠実さ)に「いちおうの信頼を置く」ことで成り立っている。その信頼がなければ、例えば水道水が飲めなくてミネラルウォーターだけにする、なんて云うのはまだ可愛いもので、飛行機にも車にも電車にも乗れなくなるし、高層ビルにも登れなくなる。
もちろんこれは「科学っぽいものなら信じろ」と云っているわけじゃなくて、程度問題だ、と云う話だ。芹沢さんの覚えておきたい、ニセ科学リストに挙がっている項目のほとんどは、専門的な知識がなくてもぼくたちのコモンセンスの延長でほとんど判別がつくものだ。だから、大事なのはコモンセンスを研ぐことだ(と云うことが結構ぼくのような「非専門家」の継続した主張なんだけどなぁ)。

だからこそ、その盲信性を意識することが必要なのではないでしょうか。
科学は絶対だというのが深層意識にしみこんでいるというか。
科学的だということに対し、そこで思考が停止してしまう恐れがある
ような気がします。

おっしゃっていることは正しいしニセ科学の問題のコアに迫る話ではあるのだけれど、微妙だなぁと思うのはここで、科学的と云う言葉の定義が揺らいでいる点。科学的、と云うのは「科学の手順を踏んでいる」と云うことで、その手順を踏んでいないものがニセ科学。で、科学は絶対でもないし万能でもない。このことがわかっていれば、専門家ではなくてもニセ科学は見破れる。そこはコモンセンスとして持つべき部分だし、逆に科学は絶対だというのが深層意識にしみこんでいることを利用するのがニセ科学なので、専門的なものでなくても判断できる程度にコモンセンスを強化しましょう、と云うのが科学者・非科学者を問わずニセ科学批判者が積み重ねてきた議論で。
で、それを踏まえたうえで指標となるようなものをあえて、と云うのが芹沢さんのリストの本意で。このことは、芹沢さんのリストにちゃんと明記してある(このリストは、機械的にニセ科学を見分けるためのものではない。「リストに載ってないから本物」などという判断は、それ自体科学的ではない。と云う一文がしっかりと記載されている)。Finalventさんがここまで踏まえて偽科学を問題にしている人って、なんか偽科学と同じような臭気を放つという点でそれほど変わらないと云っているのだとすればそれは意図的なミスティフィカシオンだと思うし、Jackさんのような方に届くのがそう云う言説のほうだ、と云うあたり、以前書いたようにニセ科学批判は流行なんかしていないし、今後も流行なんかしないことを示しているんだと思う。だってかっこわるいし。Finalventさんのほうが百倍かっこいい(し、1万倍の読者がいる)。

それでも。
基本的に科学を、そこにビルトインされた誠実さを信じるべき理由を、ぼくは以前書いた

温暖化問題を例にしたのは微妙だったかもしれませんが、
科学が客観的、公平であるという考えからくる盲信性について
意識するのは、ニセ科学などを考える上で必要ではないでしょうか。

ある時点における「科学的」な言説に、イデオロギー的なバイアスがかかる、と云うことはもちろんあるだろう、と思う。そして、それを見抜くために必要なのは、やはりまずはコモンセンスなのではないか、と思うのだ。
そして、そう云ったバイアスを排除していく仕組みを、「科学的な方法」と呼ぶのだと思う。