Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

知ること、考えること

考えるのはめんどくさい。そりゃもう。
私事だけどくそ忙しくなってくるとそもそもが持ち合わせの乏しい思考能力のリソースが簡単に逼迫してきて、エントリを書いてもまともな文章と論理が提示できなくてアップに耐えないものになってしまうので結果没にせざるを得ないので更新頻度が落ちる(ってのは言い訳。でもここ数日、脳トレ絡みのエントリをアップしようともがいた挙句に挫折したのは事実)。でもそもそも思考能力において富豪的な状況にあるひとはこんな状況には陥らないだろうし、その辺のリソースをより効率よく、経済的に活用する手法に長けたひとと云うのもいるのだろう、と思う(ライフハック?)。
などと云うようなことをしみじみと感じるような状況にいるなかで、芹沢さんの思考停止と云うエントリを読んだ。

 どちらにせよ多分考えるのがめんどくさいのはぼくだけじゃなくて多分誰でも(ぼくなんかよりもよほど頭のいいひとでも)同じで。でも考えないと、いろいろなことが分からない。

知る、と云うのは知識として得る、と云うだけのことじゃなくて、その知識を最低限自分なりの体系のなかに組み入れてはじめて知った、と云える訳で、そのためにはやっぱり考える必要がある(「知る」ことに伴う「考える」作業を省いたまま、得た知識について「知った」と思い込んで、そのまま論考を垂れ流しにするとどういうことになるか、と云うケーススタディは、このブログの「世間」カテゴリを見るといくつか確認できます。場合によってはコメント欄でリアルな生の声も読めます)。

めんどくさいだけじゃなくて、多寡はともかく人間の考えるリソースは有限で。なんでもかんでも最初から考えるのはそう云う意味で不経済な行為になるし、ぼくのようにそもそも貧弱なリソースしかない人間には、結局どこにもたどり着けなくなるリスクもある。
なので、

  1. 他のひとの思考の成果を「知る」
  2. 「知った」ことについて、手持ちの知識=それまでの自分なりの思考の体系を根拠に「考える」
  3. 考えた結果を改めて自分の思考の体系に格納する、場合によっては上書きする

と云う流れを概ねは辿ることになる。もともとの性能はたいしたことがなくても、この流れを辿ることによって、素の自分の思考能力以上の認識に到達することができたりする。

で。このプロセスをより厳密にして、みんなで効率よくこのステップを踏むことができるようにしたのが学問の体系であり、広義での「科学」なんだと思っている。要するに、なんでもゼロからはじめなくてもすむように、「そのことについては最初から考えなくてもいい知識」の体系を組み上げて、外部化したもの。で、新しい知識を付け加えたり検討・評価して体系に組み込む作業は、そちら向きのリソースをたくさん持っているひとがする方が全体としては効率が良くなって経済的なので、科学者(と云うか学者)と云う職業が成立してるんだと思う(ちなみにこの点において、以前触れたあらきけいすけさんの「ニセ科学批判」批判のための覚書およびそれに続くTAKESANさんのご質問に答えるでの議論にぼくは未だに納得していない。ぼくのように知能的リソースの決定的な欠如のせいで四苦八苦している一般人の常識強化にすら貢献してくれない「学者」を食わせているほど、ぼくらの社会は裕福ではないのではないか、と思ってしまう)。

でも、じゃあ「どの知識については考えなくてもいいのか」と云うことを判断するためには、体系を理解したうえでその都度ちゃんと「考える」必要も出てくるわけで。

偽「霊は存在する。しかし現代の科学では証明できない」

科「"現代科学では認知不能だが存在する"という可能性を全面的に否定するものではないが、あらゆる傍証から存在可能性そのものが極めて低いと判断できる」

偽「そうやって、まだ証明できないものを否定するのは思考停止であり、科学の発展を阻害する」

科「検討した上で否認されたことだが。むしろ何でも"まだ証明できないだけ"で逃げるほうが余程思考停止だろ」

同じ「思考停止」と云う用語を使っているので混乱しやすい(の側では故意にか無意識にか明らかに混乱している)のだけれど、「どの段階で思考を停止しているか」「停止するためのルール(「新しいことを主張する人が自説を証明せねばならない」と云うのもルールのひとつ。このルールがないと運用効率がひどく低下する)を理解して、それにのっとっているか」「それらのことについて、停止する前にちゃんと『考えて』判断を下しているか」と云うことを考えると、これは実はまったく違った次元の話だ。

ちなみにこの「故意にか無意識にか次元の違う話を混同する」と云う行為は、対話においていろいろな水準でビリーバーや「ニセ科学批判」批判者の行動に顕著に見られるパターンだったりもする(端的に、議論の目的を勝ち負けに勝手に矮小化する、みたいなきわめて頻繁に見受けられる行動様式もそうですね)。で、これって結局、「どんな文脈でも『思考停止』は『思考停止』で、だったら駄目じゃん(もしくは、自分とおんなじじゃん)」的な考え方から来るもんじゃないかなぁ、みたいに感じられたりする。

二分法的思考とか、過剰な「分かりやすさ」志向とか、言葉の取り扱いの粗雑さとか、議論の相手の主張に対する極端な理解の浅さとか。この辺が多くの場合ワンセットで見られるのは、何かしら共通する要因があるんだろうなぁ、とか思う(みたいに書くと「レッテル貼りだ!」とか言い出すんだ。分かってるんだけど)。

#ところで書き終わってから気付いたけど、これってapjさんの知識の絶対量も問題ではと云うエントリや、亀@渋研Xさんの【メモ】思考力が先か,知識が先かと云うエントリ辺りとの関連エントリなのかもしれない(そんなことはないかもしれない、ので、トラックバックは送らないけど)。