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脳科学

WIRED VISIONの「美には生物学的な根拠」彫刻作品と脳の働きを実験と云う記事を読んだ。

被験者たちはこの違いを認識できるような理論的素養を持っていなかったが、変更のない画像を見た被験者たちの島皮質には、常により活発な活動が見られた。島皮質は感情の処理と密接に関連する脳の一部だ。

つまり、簡単に言えば、変更を加えていない本来の彫刻には、人を感動させる力があったということだ。

次に、いくつかの彫刻について、美学的に見て美しいかどうかについて被検者に判断させた。美しいと判断された作品については、被検者の右側の扁桃体が活性化していた。ここは、感情的価値を含んだ「学習された情報」に反応する箇所だ。

実験結果の正当性はともかくとして。

結局のところぼくがしばらく以前から茂木健一郎氏に期待し、何冊か著書を読んだりしたのは、この辺りに「科学的」なメスを入れてほしかったからで。なんだか古色蒼然としたイデア論の語り直しみたいなものを読みたかったわけじゃなくて、だからそれがぼくの失望の主な原因だったんだろう、とか思う。

今回の研究結果でわかったことは、美は、別個だが互いに重なり合うプロセスに仲介されるということだと科学者たちは述べている。

その1つは本能的な直感、もう1つは知識だ[研究者らによれば、第一の実験は、個人的な判断とは無関係に「共鳴」的な反応が起こることを明らかにしたもので、美には「客観的な価値」の根拠があることを示しており、一方、第二の実験は、個人の過去の体験に結びついた「主観的な判断」について示すという。そして、芸術の歴史は、この両者が緊張関係を持って絡み合ったものだと述べている]――そこにこそ、芸術家や彼らの生きた世界が消え去ったずっと後でも、その作品が世代を問わず語り継がれる芸術の力があるのだ。

慎重で、節度ある結論だと思う。そこにはもちろん、「科学万能主義の傲慢」などはない(と云うか、そもそもそんな科学者には会ったことがないけれど)。
そして、その「客観的な価値」「主観的な判断」との端境で、ぼくたち人文系の人間は煩悶を繰り返していくわけだったりするのだろう、と思う。