Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

価値観と指標

福耳さんのドライバーの道義と云うエントリを読んだ。で、ちょっと思い出した。

つまり、ガソリンの代わりにエタノールでドライブすることが直接的に貧しい人々から食糧を奪っておるのではないか?と言われて、後ろめたくないドライバーというのはいるもんでしょうか。

まぁ、いるのだと思う。

自分の快楽がなによりも優先する、と云う倫理観は、そうそう簡単には獲得できない。自力で獲得できる視点に基づいて、そう云う価値観に到達するのは難しい。誰でもが、生身の人間だから。どこかが壊れていない限り、ある程度はひとの痛みを自分に置き換えて考える能力を持っているから。

でも、その辺りの、なんと云うか血のぬくもりのある生臭さみたいなものを完全に脱臭して、強力に抽象化する仕組みがある。

マネー。

だれかを蹂躙して、その生き血をすする代わりに、ぼくたちは投資をすることができる。マネーゲームと云えば昨今のこの国では堀江貴文村上世彰のやらかしたひどくださくて露骨で洗練されていないやりくちを想像するけれど、あんなむきだしのやり方をしなくてもぼくたちはもっとお上品に、良心の呵責から自分を簡単にエスケイプさせることのできる方法をとって、世界から収奪を行うことができる。

でも、マネーと云うものがなにを抽象化したものか、それは何の象徴なのか、と云うことはわきまえておくべきだ、と思う。それは、それこそ人間として。

思い出したのは、この小説。

リスクテイカー (文春文庫)

リスクテイカー (文春文庫)

  • 作者: 川端 裕人
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2003/10/11
  • メディア: 文庫
 

マネーゲームを扱った小説は、大抵の場合程度の低い麻雀放浪記の亜流に堕す。結局そこで勝つのは、倫理的に正しく、技術的に優れたギャンブラー、と云う話になるから。それは残念ながら、奥田石田衣良波のうえの魔術師でさえ例外ではない(小説としてはとても面白いのだけれど。ファンとして、奥田石田氏の小説の多くが結局のところファッショナブルなだけの代物かもしれない、と云うことを指摘するのは辛いことだ)。でも、「リスクテイカー」は、結局のところマネーと云うものはなんなのか、なぜ人間はそんなものを作り出して、それはどんな意味を持ちうるものなのか、と云うことにアプローチしている。その、抽象化作用と云うものに対する違和感からも逃げていない。

ぼくは若い頃に、その違和感を体験として持つ。
ささやかなものだけれど、社会人になった1年目に、自分の年収の1,000倍のギルダー債について、(多分当時のアムロ銀行相手に)"done"の言葉を発声した瞬間の感覚。

ぼくたちのこまごまとした市井のスケールを超えない努力も、アイディアも、いくらでもキャピタルマーケットに簡単に吸収されてしまう。それは根本的には愚かしいことだと思うのだけれど、その愚かしさをどこかで自覚し、自分たちがそう云うものにきりきり舞いさせられている現実を認識できないと、リアルな人生と世界を一面絵空事に支配させてしまうことに繋がるのではないか、と思う。

ぼくは誰かの役に立って生きていきたい。それが最低限のモラルだ。実践は難しいかもしれないけれど、そう思う。