Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

英雄であること

昨日こんなエントリを書いて、自分でもなんだかなぁ、とか思っていたところで、gooニュースの援助という名の運動とボノの軍団と云う翻訳記事を読んだ。

U2は好きだった。ギター小僧だったぼくは、とりわけThe Edgeのギターが。
垢抜けない、生真面目な、パンクに乗り遅れたロックバンド。アイルランドを象徴するロックバンドと云えばポーグスで、この点についてぼくは誰のどんな異論も認めないけれど、それでもU2のメロディ・ラインは他の国のロックバンドにはない、なんと云うか、いい意味で伝統芸的なものもあって。
それが、気付いたら実質的に世界一のロックバンドだ。誠実さには疑う余地がなくて、その点ではジョー・ストラマーのスタンスをまっすぐに受け継いでいたボノ・ボックスも、気付いたらセレブリティのボノだ。

英雄になるのは、ヒーローになるのは、危うい。昨日のエントリで書いたチェも、フィデルも、その危うい橋を何度も踏み外しそうになっている(と云うか、踏み外して死んだチェと、何度も踏み外しているのになぜかしたたかに生き長らえているフィデル、と云ったところが正確な辺り)。
そして、昨日のエントリを書いたときにぼくの頭にあったのは、実は副司令官マルコスだった。彼の体現する矛盾だらけのスタンスと、それをカバーするために動員される莫大な量の知性、ユーモア。正しいと信じることに向かうこと、信念に基づいて何かを為そうとすることの(ほんとうの意味での)信じ難い難しさを、現場で闘う彼ははっきりと示す。

そして、どれだけ愚直で誠実であっても、セレブリティである(そして、ミュージシャンとして以外では「セレブリティ」としての振る舞いでしか実効性のある行いをなし得ない)ボノには、その複雑さまでは理解できないし、体現できない。

ぼくは子供の頃にジョー・ストラマーの、そしてボノのシンプルさと誠実さに憧れた。でもそれは、ものごとを二分法的に切り分けていくことの危うさと紙一重のものだ。

選挙で選ばれたわけでもない有名人が、政治家をこうして恫喝する姿には、何かとても不快なものがある。でもボノと仲間たちが、苦しむ人たちを本当に救っているなら、別に構わないじゃないか。ファンたちはそう確信している。金を集めて、人々の意識を高めて、「正しいことをする」ように政治家たちに圧力をかけて、そうやってスターたちは世界をより良いところにしているのだと。

ここで問題なのは、スターというのは得てして、物事を白黒はっきり単純にとらえがちだという点。ハリウッド映画やロックの歌詞や、ブッシュ米大統領の演説にありがちな表現のように、きわめて単純明快なのだ。彼らにとって問題と言うのは、常に白か黒か、善か悪かと、対立軸がはっきりしている。

ヒーローたちには汚れてほしくない。シンプルでいてほしい。その代え難い声で、誠実な歌をうたってほしい。

でも、実際の世界はそれほどシンプルではないのだ、と云うことは忘れないようにしなければいけない。理想しか見ない狭量さは、理想を省みない薄汚さと同じくらい愚かしいものだ、と思う。