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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

つかいみち

心理学研究者のシシィさん(とプロフィールには書いてあるけど、こう書くと馴れ馴れしすぎるのかな? エリザベート殿下と書くべきか)の10/3と10/17のまとめと云うエントリで松永和紀さんの「メディア・バイアス」に触れている部分を読んで、ちょっとした感銘を受けた(ちなみに同書を読んだときのぼくの感想文はこちら)。

少し前のエントリで、「科学者は別に『斬新な視点』がなくて困っているわけじゃないし、素人の思いつくぐらいの『斬新な視点』なんざもうとうの昔に思いついていて、使えないものは棄却されているはずだ」と書いた。同じ事柄について、シシィさんは切れ味鋭くお書きになる。

ずっと誰も取り上げなかったということは、科学の世界では研究に値しないとみんなが評価したということで、おそらくはボツになっているんです。現代になって「隠されていた真実」が発見されるということは、ほとんどあり得ません。血液型性格学も、ボツになった研究を現代に科学らしき衣をまとわせて蘇らせたものです。

そう云うことなのだ。学者ってのは考えることで飯を喰えるくらいのプロだ。そのプロが互いに切磋琢磨して生き残っているのがいまの科学だ。そこに、素人がろくに鍛えてもいない安物の「感性」とやらで新しい切り口を提供できるとか思い込むのはどうか、自問してみもしないのが問題で。

科学は「真実」ではありません。ただ、これだけ科学技術に頼る生活をしている私達が「科学は分からない」で済ませていては、それを自分の利益のために科学めいた宣伝・アジテーションを不当に利用している事を見抜けないし、ムードや感情に流されて結局は不利益を被ってしまうことだってあるのです。そうした意味で、どのように私達は科学を賢く利用し、科学と折り合っていくかという考え方を持つことが必要だと思います。

そう、ぼくたち一般人にとって科学はなによりも有用な「道具」だ。信仰する理由もないし、ことさらに軽視する必要もない。正確に見つめ、使い方を考えて利用すればいいのだ。

生身の人間を扱う、それもなかなか被害の見えにくい「こころ」を扱っているからこそ「科学的思考」を使って謙虚に慎重にやっていこうという姿勢を、基礎から心理学を学んできた人間の多くは持っているという事を理解していただければと思います。

実際のところ、安易に「こころ」について語ろうとする人間ほど、ひとのこころと云うものを大事にしていない。クオリア芸人の某氏も同様の存在に、ぼくには見えて仕方がない。

ぼくたち非専門家は、科学を追究することで飯を喰っているわけではない。ある意味ぼくたちは、考えることが上手なひとたちを社会全体として養うことで、その果実を経済的に利用する権利があるのだ。「専門家に『考えろ』などと云うのはクレクレくんの怠慢でコモンセンスの衰退だ」なんて云わせている場合ではないのだ。なにを信頼すべきか見抜く目を養って、信頼すべきは信頼して、そしておおいに利用すべきなのだ、と思う。