Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

忘れないでいたいこと

thereseさんの科学者による宗教批判は単なる好き嫌いだと云うエントリを読んだ。いや、この方は例えばドーキンスの主張なんかを踏まえたうえでお書きになっているので、エントリタイトルは多少誤解を招きがち(と云うかちょっと釣りっぽく見える)と云う気もするけど。

ぼくは(頭の中では多少の理解はあるつもりではあるとはいえ)やっぱりふつうの日本人で、だから宗教と云うものに対する感覚も根本的にはふつうの日本人で。なので、宗教について語るときには慎重であるべきだ、と云うのはいつも思ってはいる。このことは以前、キリスト者であるmarco11さんにも釘を刺されたことではあるし。でも、だからと云っていたずらに避けるのもまた、不誠実な態度ではあると思っている。
とまぁ、これぐらいの前置きを置かないと宗教に関する話題に触れるのはおっかないのだ。

また、無神経なことに「宗教」と「オカルト」とか「ニューエイジ」、最近のテレビや出版界で評判の「サイキック」まで一緒くたにして「目に見えない世界」を扱う分野を「宗教」として断罪している傾向があるようだ。
これに疑似科学まで含めて「インチキ」というカテゴリーに押し込めようとするのは、対象への観察がまったくなされていない。これもまた、思考停止のひとつじゃないかと思う。

実際のところぼくはこれを本業の科学者が行っているところを見たことはないのだけれど、でもまぁぼくら一般人のレベルでもそう云う捉え方をする人間がけっこうどっさりいるのだから、科学者にもいるんだろうな、と思う。
こう云う宗教に対する漠然とした把握はある意味日本人特有のもので。例えば宗教とカルトは(それこそ二分法的に明解な弁別はできないにしても)明らかに違ったものなのだけれど、その違いが分からない。
考えてみると、「信仰」と云う言葉を「ロジカルな思考を放棄して盲信する」と云う意味で使うのは、比喩としても相当失礼だ。

まあどんなふうに定義しようとも「神」は物質ではありえないだろうし、実験再現性など望むべくもない。物質ではないものを実験することは不可能なのである。
だから科学で「神」や「宗教」を断罪しようとするのが越境なのだ。

これはまったく正しいと思うし、共感する。
そして、ぼくが例えば田崎晴明菊池誠天羽優子らの反ニセ科学的行動を行っている科学者たちに基本的な信頼を置いているのは、彼らが科学で「神」や「宗教」を断罪しようとするような浅い思考でものごとを捉えるような人間ではないことを(時には直接の議論を通じて)知っているからでもあって。

科学、および科学的思考に棹さして本来その文脈で語り得ないことを判断しようとするのは、根本的に不誠実だし怠惰なことだ。特にぼくたち、特定の立場を表明していないがために縛られることもない非専門家は、そうであるがゆえになおさら、何を考えるときにどの文脈を援用するかについて意識的でいなければいけない。

私自身も不勉強な部分がたくさんあるのだが、不勉強に「宗教は悪い」「科学で解明されない」と言うのはやめようと思っている。
その不勉強での批判こそが、不要な対立を招くからだ。

何かを生み出すわけではない対立軸を設定するのは、不毛なことだと思う(世の中には批判はバトルしか生まない、と認識しているひとがいることを先日学んだが)。平面的な対立軸に寄りかかって世界を整理しようとするのは、場合によってはそこから豊かさを奪う結果にしかならない、ということも忘れないでいたい。