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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

反証の価値

katsuyaさんのニセ科学が反証されるときと云うエントリを読んだ。

一連のニセ科学に対してどうして反証実験なしに否定できるのか、と云うことについては、田崎教授がマスターピース水からの伝言を信じないで下さい」のなかでFAQとして「水からの伝言」が事実でないというためには、実験で確かめなくてはいけないのでは?と云う項目を充ててシンプルに記述している。また、もう1年近く前になるけれど、J2さんのところのやればいいじゃん反証実験と云うエントリとそのコメント欄での議論も印象的に記憶している。

議論は「反証実験」の有効性に関するものが多いようだ。
「ビリーバーはどうせ言い訳して反証実験を受け入れない」とか
そういう意見も多いようだ。

このkatsuyaさんの認識は、相違していると云うわけではないけれどやや正確ではなくて。

おそらく、「水からの伝言」を科学的な証明に基づくもの、と捉えるひとたちは、より厳密な条件を揃えた反証実験を実施しても、どちらの実験が「正しい」ものなのかは分からない。これは科学的知識の多寡に由来する以前の問題で、おそらくそもそも「正しい実験」にどんな意義があるのかと云う点から理解できない。まったく反論の材料にならないのだ。

実験が何かを証明する、その権威がどこから生じるのかを考えると、それはやはり「これまでうまくやってこれたやり方を踏まえている」と云うことにあるんだろうと思う。
科学者ってのは「科学的にものごとを探求するのに秀でたひとたち」で。で、そう云うひとがよってたかって長い時間をかけてつくりあげて来たのが現在の科学で。
いろんなことを試して、互いに叩き合い、鍛えあって、それでまぁ「妥当だろう」ということで採用される。それが積み重なって体系になっているものだから、実際「単なる思いつき」の入り込む余地はあんまりない。

この辺りぼくもここのコメント欄や別の場所で科学者のみなさんと議論したりして理解したことなんだけれど、要するに根拠もなにも必要じゃない「単なる思いつき」なら、実際のところいくらでもでるわけなのだ。それは別段「素人ならではの斬新な視点」みたいなものが待たれている部分じゃなくて、現場の科学者にもアイディアは湧いてくるわけで。

じゃあその斬新な視点を片っ端から試しているのかと云うと、もちろんそんなことはなくて。時間も資金も思考能力も、リソースは有限なのだ。だから科学者と云うのは「斬新な視点をいっぱい思いつくことができるひと」の職業じゃなくて、「モノになりそうなアイディアを見極めて、ちゃんと使えるものにするひと」の職業な訳だ。なんでもかんでも思いつきを実験で確かめて廻るだけなら、それが技能として成立したりはしない。

もちろん盲信する必要はないしそうすべきではないけれど、それでも「専門家の技能」に基本的な信頼を置くことができなければ、ぼくたちの社会的な営みはひどく不経済なものになる。ましてや自分の思いつきを「そっちの手弁当で証明しろ」と云わんばかりの論調(元エントリのコメント欄に登場している御仁とか、最近kikulogの陰謀論関係エントリのコメント欄に登場していた陰謀論者のみなさんとか)はそう云う意味で論外で。自分の業績になりそうなアイディアなら科学者は飛びつくって。

この認知的不協和の理論を踏まえると
反証実験はニセ科学の信者に認知的不協和を引き起こすから、
反証実験そのものを受け入れないだけでなく、
かえって布教というかニセ科学の普及活動を活発化させる可能性がある。

認知的不協和が活発化につながるか、と云うとそんなふうに直接結びつけることができるかどうかは分からないけれど、katsuyaさんの議論をひきつぐなかで懸念しなければいけないのは、単純なニセ科学批判が信奉者の先鋭化を惹起する原因になりうる、と云うことだと思う。
この部分については(戦略的な面も含め)まだとるべき方向性、のようなものがはっきりしてこない状況ではあるんだよなぁ。