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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

論客の資質

kikulogの11th of Septemberおよび陰謀のふたつの顔と云うエントリに「陰謀論者」さんたちが登場して結構な大騒ぎになっている。「なんだかなぁ」って感じがして議論に参入する気力は生じないんだけど、そのなかで登場しているヒロさん日記さんの全体主義学者へ捧げる、ミズ知らずの私からの伝言と云うエントリを読んだので、ちょっと言及しておく。
えぇと、揚げ足取りめいたエントリになるので、そう云うのがお嫌いな方は“続きを読”まないことをお薦めしておきます。

結局論者としてなにかしらその発言に価値を認められるのは、そのひとがそのひと自身としてのある一貫した主張をしようとする、また議論に参加することによってその議論全体になんらかの貢献をしようとするその姿勢から来るものだと思う。移り気に論点をつまみ食いして議論に「勝とう」と云う姿勢では、その場においてその発言が意味をなすものだと捉えられることはまずない。議論の勝ち負けを問題にしているうちは、そもそも議論にほんとうの意味で参加していることにはならないわけで。

だから例えば勝ち負けにこだわるあまりディテイルにおいてひとりの論者として整合性のない主張をしてしまうのは、実はけっこう致命的だったりする。
議論において他の論者の意見を聞いて主張が変わるのは、実はそれほど問題にはならない。考え直して、より自分の思索を深めて、それから改めて議論に参入していくのは、多くの場合議論そのものに対する貢献もなし得るし、そのことそのものはフェアな議論の成立している場では他の論者からも歓迎される(し、論者としての評価も下がらない)。逆にその場における勝ち負けに執着して結果的に主張の一貫性が失われてしまえば、そのひとには「勝ちたいひと」だと云う評価が下される。

水からの伝言』が小学校の道徳の授業に使われたことで、これを痛烈に批判する「ニセ科学糾弾」が大好きな方たちがいるが、これは宗教の領域だ。科学と宗教に境界を引かずに総否定してどうするのか。

まずここで、そもそも小学校で宗教教育を行うべきなのか、と云う論点が外されている。おそらくヒロさん日記さんは「小学校で教えることが非科学的でも、それが宗教教育なら許される」と云う主張をしたいのではないと思う(まさか公立の小学校で特定の宗教に基づく教育が施されるのを推奨されているわけではないと思うので)。でも残念ながら言説上そうとしか読めない記述になっているのは、「ニセ科学批判者を批判する」ためにご自分の主張と相反することを書くのも厭わない、と云う行動に出てしまっているからなのだと思う。

「<マイナスイオンが体にいい>は証明されていない」→「マイナスイオンニセ科学だ」→「<マイナスイオン>を冠した商品はニセ科学に基づく商品だ」という論調に対して反論している。

まるで何かそう云う論調がニセ科学批判者の側にあるような書き方をしているけれど、実際のところそんな論調はない。マイナスイオンと云う言葉に科学的な共通理解を成立させるような実体が存在しない(実際のところそれはその場その場で定義が変わるようなものだ)ので、<q "http://www.mypress.jp/v2_writers/hirosan/story/?story_id=1659486" ><マイナスイオンが体にいい>と云う言説が意味をなさず、従ってそこには(議論できるような)実体がないので、まるで実体が存在しているような議論をするのは科学ではない、と云う話だ。いや、科学的かどうかは別にしても、共通理解の成立し得ない、都度定義が変わってしまうような用語について議論するなんてことはふつうできないと思う。
このことに対する吉岡氏の主張は「私もマイナスイオンと云う言葉を使っているし、世間でも使っている。だからその言葉に実体がないと云うのはおかしい(たとえ定義がなくても)」と云うようなもので。ふつうはこう云うロジックには与しない。でも、勝つためには与してしまう、と云うことなのかな。

「生徒に「マイナスイオンって、ないんですよね」と誤解させるようでは教師失格だ。

どう誤解なんだろう。吉岡氏の主張に準拠して「マイナスイオンと云うものはある」とお考えなんだろうか。それともこの方なりのなんらかの見解がおありなのだろうか(別になくてもいいのだけれど、吉岡氏の議論に同調するなら「同調するなりの見解」が必要となる)。

陰謀論は(実は、楽しむためとしては)嫌いじゃない。それは話題の提供にもなるし、なんと云うか「知っている、と云う感覚に基づくちょっとした優越感」も感じられるし。でもそれをシリアスな議論の場に持ち込むと、ましてやそこで「なんとしてでも勝ちたい」とか思ってしまうと、論者としてのアイデンティティのようなものが崩壊の危機に陥ってしまう。これって多分、望ましくないことなんじゃないのかなぁ。