Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

社会に貢献する、と云うこと

なんか間違いなくカテゴリエラーなんだけれど、適切なものを設定していないので。
福耳さんの社会的企業家を定義すると云うエントリと、続く社会企業家と非社会企業家と云うエントリを読んで、なんかあれこれ考えた。考えたんだけどなにか自分なりの結論とか議論の発展に寄与する思索とかができたわけではないので、これから書くのは単なる雑感(なのでトラックバックは送りません)。

利益の最大化ではなくって、社会問題の改善あるいは解決を優先する。自組織の存続はそれに必要な限り手段として採用する。


そうすると社会的企業というのは、まるでアシモフのいうロボットではないですか。社会的企業家三原則とか、あるのかな。

と云うか、法人って云うのは人間に奉仕するべく人間を擬態する、まぁロボットのようなものではないんだろうか。だから本来、「ひとに危害を加える企業」ってのは存在が許されない、って大原則があるような気がする。

で、本来企業の得る利潤と云うのはその企業の社会に対する貢献の対価であるはずで。と云うかこれって、大原則のはずではないのかなぁ。で、市場って云うのは原則的にはある企業とそのプロダクトなりサービスなりがどれだけ社会に貢献しているかを評価する場所ではないのかなぁ。

くどいけれどこれはあくまで原則論。と云うか原則原則云っているとなんか自分が頭の固い中学二年生になったような気がしてくる。ひどくナイーブな(と云うかうすら馬鹿みたいな)ことを書いているのは自分で分かってはいるんだけど。

現実、市場がそんなふうに動かないのは知っている(ぼくには機関投資家として働いていた時期もあるのだ。外国債券も国内株式も扱ったことがある)。でも、「そんなふうに動かない市場」と云うのは、別にあたりまえのことではなくて、原則的には機能不全に陥っている、と云うことではないのだろうか。で、「市場がそういうふうには動かない」と云う現実をあたりまえのこととして受け入れるのは、実際には知的にひどく未熟な感覚を持っているか、頽廃しているか、あるいはevilなことではないのか。で、そのことをあたりまえのこととして資本を動かすような投資家が当然のように存在する市場は、実際には市場の名に値しないのではないか。

Bill G.を典型的な例として、財を成したアメリカ人起業家が社会貢献を当然の義務のように考えるのは、この辺りを理解しているから、と云うことのような気がする。そう云う意味でなんと云うかある種の倫理のようなものが存在していれば、市場経済と云う仕組みはぼくたちが頼るに値するものだと思う。で、そう云う状況が実際にあれば、社会起業家と云う定義はそもそも必要なくなる(と云うか同義反復になる)ような。
でもうちの国の「市場」は果たしてどうか。そしてそれはなぜなんだろう。