Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

気持ちの問題

kikulogの付加価値としての音楽と云うエントリを読んでいて、なんとなく思い出した。ぼくは今週、バイダイナミクス農法のコーヒーを飲んでいる。

ぼくは毎朝、コーヒーだけは真面目に溜れる。別にそんなにこだわりがあるわけではないし、求道的にコーヒーを溜れる技術を追求しているわけではないのだけれど、まぁふつうに真面目に。ちょっとした朝のお楽しみ、と云うか。

豆についてはわりと近所に昔から(それはもうほんとに昔から)お気に入りの豆屋さんがあって、そこで買っている。買っている、と云っても自分で買いにいくわけじゃなくて(大抵の場合コーヒー豆は平日に切れる。この店は日曜日には休みだ)つれあいに買って来てもらう。豆の種類の選択はつれあいに任せているけれど、この店は豆の焙煎に対する異常なこだわりで有名で、要するにどんな豆を買って来ても基本的には「この店の豆の味」になるので、あまり問題はない。

で、先週末にそれまで飲んでいたパナマパナマぁ?)の豆が切れたので、つれあいが買って来てくれた。何を買って来たのかを訊ねると、「インド」と云う返事。インドぉ?

インドでコーヒー豆なんぞ栽培しているのか、と思って確認してみる。ニルギリ地方(どの辺かよく分からない。ミルクティーにして飲む紅茶の産地と云う認識しかない)で、バイダイナミクス農法を実施している農園産だ、とのこと。

バイダイナミクス農法に関しては、以前ここでそれを実施しているらしいワイン農場の話に触れたことがある。そのときも「まぁいいんじゃない」とか思ったのだけど。要するに基本的には有機農法なのだけれど、そこにルドルフ・シュタイナーを源流とするオカルトを付け加えたものだ(おぉ、ルドルフ・シュタイナー! それこそこの名前は、澁澤龍彦著作で知ったものだ)。月の満ち欠けや星座の位置で作業を行う時期を決めたり、大地の力を引き出すために水晶を農地に撒いたりする。

コーヒーについては採用している農法で付加価値を付けよう、と云う発想はわりと一般的だ。オーガニックとか、バードフレンドリーとか。バイダイナミクス農法の採用もそのひとつのようだ。
まずこの辺の高付加価値農法の採用によるデメリットは、手間が増加するとか収量が安定しないとか云うことがあるんだろうと思う。でまぁ、それだけ手間をかける分(関心を傾けた、というだけでも)おいしいコーヒーになっても不思議はない。それにしてもバイダイナミクス農法と云うのはめったやたらと、なんと云うかストリクトな取り組みを要求するもののようなので、大変だろうなぁ、とは思うけれど。

で、この豆は(この店の他の豆の水準程度には)おいしい。値段も高くない。つれあいはオカルトな農法を採用しているからと云って、日用品に余計なお金を払うようなキャラクターではない(50円高いから、と云う理由で、ぼくの好きなマンデリンは滅多に買って来てもらえない。ちぇっ)。そうなるとまぁ、「バイダイナミクス農法採用!」のうたい文句はなんとなくシュタイナーに想いを馳せることでちょいとばかり風情を増す、と云う以上のものではない。

では、「音楽を聴かせたお酒」というコンセプトは無意味なのかというと、そうではないだろうと思います。買った人が「思いを馳せることができる」という価値はあるのではないでしょうか。つまり「このお酒の熟成中に、あの音楽が流れていたのだなあ」などと感慨にふけりつつ飲む、ということに「付加価値」を見いだしてもいいのだと思います。まあ、「誰それが使ったバット」みたいなものです。

そう云うのも、味わいの一部なのだ。で、味わいを感じ取るのはそれぞれの人間なので、楽しく味わえればいいわけだ。そう云う「気分」に金を払うのも、一般的なひとの経済行為として存在するし。

オカルト有機農法で栽培されたコーヒーを飲むことに何か「ロハス」的な意味付けをするひともいるだろう。それはそれで個人的には俗物臭くて嫌だなぁ、とか思うけれど、人の勝手と云えば勝手だ。ぼくに関して云えば、少なくともその部分に余計なお金を払うならもっと安くて好みの豆を買うし、飲んで不味ければ二度と買わないだけの話。
そう云うわけで、明日の朝もオカルトコーヒーを飲んで出勤します。