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物語の伝えるもの (「精霊の守り人」上橋 菜穂子)

この小説と指輪物語との間にある共通点を、ぼくはひとつ見つけた。それは、作品世界がきっちりと「その世界の歴史」を背景にしていることだ。
そう、物語の登場人物たちがみな「彼らの物語」を文化として保有していること。

精霊の守り人 (新潮文庫 う 18-2)

精霊の守り人 (新潮文庫 う 18-2)

  • 作者: 上橋 菜穂子
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2007/03
  • メディア: 文庫

指輪物語」もこの物語も、失われた神話が取り戻される物語、と云う点で共通している。そして、このことはとても本質的な類似だと思う。どちらの物語も「物語の持つ意味」をテーマにしているからだ。

これは、これらふたつが重層的な構造を持っている、と云うことを云っているのではない。ぼくが云いたいのは、単一のレイヤーのみで「物語の持つ意味」に直接的にアプローチする手法として、トールキン上橋菜穂子と云うふたりの学者が選んだのがファンタスィと云う文学形式だ、と云うこと。物語(そしてその社会的形態としての神話)がひとにとってどんな意味を持って来たか、持ちうるかと云うことを、まさにその物語をもって語ることを選んだ、と云うこと。

事実を羅列しても、それはひとの営みの真実を言い表すことにはならない。現実の断片をいくら集めても、それは理解できる真実をかたちづくることはない。真実を伝えるためには、それをひとが嚥下できる物語とする必要がある。
だから、物語を紡ぐことはとても難しい作業だ。伝えるべきことがあれば、それを伝えることのできる要素はひどく絞られる。とりわけファンタスィでは、創り手の選択眼と、それぞれの要素を扱う手つきに相当高い意識と熟練が要求される。そこをおろそかにしたファンタスィは、道具立てだけを並べ立てた核のないふにゃふにゃの代物にしかなり得ない。そこに、物語の「伝える」力の発現はない。

力を持ったファンタスィを紡ぐためには、だから人間と社会、そして自然に対する深い造詣と洞察が必ず必要になる。そして、ファンタスィの読み手はそれらを見抜く。そこでは贋物は生き残れない。
そして、この物語は、伝える力を持つほんとうのファンタスィだ、と思う。

そう云うわけで次巻の刊行を待とう。

9/26追記:
ここに書いた「重層性」と云うのは、物語のレベルと別のメタレベルが(意図的に、作劇上)存在する、と云う意味。それって技法としてはみみっちくなるし、肝心の物語が力を削がれてしまうと思う。ちなみに現時点で「闇の守り人」も読了しました。