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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

力不足(1)

実はあらきけいすけさんの「ニセ科学批判」批判のための覚書と云うエントリを読んでからしばらく経っているのだけど、言及する勇気がなかった。でも、重要な示唆があると思うので、触れてみる。

いわゆる「ニセ科学」への対抗活動の基本は、いわゆる「ニセ科学」が「科学的にまちがっていること」が問題なのではなく、「科学のふりをして人を(精神的、肉体的、経済的に)傷つけること」が問題とされているはずである。これは「他者を傷つけてはならない」という「他者危害原則」に則った、きわめて高い倫理的規範に基づいた行動になっている。
ところが菊池さん天羽さんの日頃の言論、活動では、この倫理的規範がその根底にあることが明示的にあまりなっていないように思われるし、賛同者にせよ批判者にせよ、この規範について反省的に考察を加えているものが少ないように思われる(…のはボクが寡聞だからですか、そうですか)。

まぁ、少ないかもしれませんね。いくらかでもそのことに言及されている人文系の学者としては、朴斎先生くらいしかぱっと思いつかない。dlitさんの角度も、倫理的規範に向かうものではないし。

倫理的規範、と云うのは非専門家が簡単に言及できるものではない。菊池さんも天羽さんも自然科学者で、社会科学の専門家ではないので、責任を持って言及できる範囲は限られる。

非専門家が倫理的規範に言及しようとすれば、それは「常識」に立脚せざるを得なくて。いや、常識は倫理的規範の実体だとは思うのだけれど、そこに単純に棹さしても言説としての強さは生まれない。でも、ニセ科学問題については人文系の学者のプレゼンスはちょっと不思議なくらいに小さい。

以前にも書いたかもしれないけれど、例えば水伝授業の問題とか、七田式教育法の問題なんかに関して、教育学者のプレゼンスは異常に低い。正直言って、この国には教育学を研究して禄を食んでいる学者はひとりもいないのではないか、と思うくらいで。いや、世の中には教育大学とか教育学部とかどっさりあるはずなんだけれど、そこには研究者が「ひとりも」いないのかもしれない。だとすれば納得するけれど。

ぼくは文系を標榜しているし、ここでニセ科学を扱うときのメソッドも文系的な角度からの論理構築と著述を旨としている。でもそれは単にそれがぼくにとって慣れた(実行しうるおそらく唯一の)方法だからで、ぼくも学者ではないわけなのだ。正直、ぼくなんぞでは泥縄式に勉強して自分の論理を強化するのがせいいっぱいで、お話にならないくらいに力不足なのだ。

倫理的規範が背後に強く働いているにもかかわらず、そのことについて反省的な考察がなされず、倫理的な判断の基準が「常識的な線」という曖昧なものに留まったままであること、そして議論の文脈を見ていってもその方向への議論の発展が期待できないこと。これが現在の「ニセ科学批判」の活動の「文系の視点から見た」問題点ではないか。
 「人を傷つけるな」:それは当たり前のことである。「傷つけないために何を為す/為さぬべきか(その根拠は何か、何と対比的に考えられるか)」についての考察が足りないのである。

これは、概ねの批判者は理解している(理解せざるを得ない。あらきさんがどのように認識されているかは分からないけれど、ぼくのような在野の匿名の批判者に対してさえ、「批判批判」の風当たりの強さはけして楽なものではないのだ)。では、そこを考察していくのは誰のお仕事だとお考えなのだろう。

稲葉振一郎さんがここにコラムで触れて下さって、ぼくの書いたことを「ニセ科学問題についての文系アカデミズムに対する挑発」として取り上げて下さってからおそらくもう半年以上経過している。でも、ほとんど状況は変わっていないのだ。
以前も書いたけれど、ぼくはニセ科学問題をすぐれて社会科学的な問題だと思っている。ニセ科学批判」の活動の「文系の視点から見た」問題点でさえ自然科学者たちに自力で解決させようとするなら、この国の文系アカデミズムはなんのためにあるんだろう、なんて思ったりする。