Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

批判する、ということ

こちらで論宅さんのエントリに触れたり、こちらで津村ゆかりさんのエントリに言及したりして、ぼくのところやそれぞれの方のコメント欄なんかで結構な議論になったりした。もちろんその後の展開もフォローしてはいたのだけれど、結局論宅さんは社会学関連のジャーゴンをタイプするのがお好きなだけのようだし、津村さんはなによりもご自分のスタンスと云うのを大事にされているようなので、結果的に直接の議論としては特段の成果は見られなかった(もちろん公開の場での議論だったので、議論の展開をご覧になった方になんらかのことが伝わったかもしれないことは期待してもいいのかもしれないけれど)。まぁでも、ネットは公開の場所である以上、真摯な批判に対してどのように振る舞ったか、については多くのひとの目に触れているのだ、と云うことはもう一度思い出していただければ、と思う。正直、おふたりの振る舞いには、継続して言及する意思を喪失させるのに充分だった(言及して欲しくもないだろうけど)。
で、津村さんのエントリに対して言及した藤澤真士さんの[リンク]「ニセ科学」関連・本当の最終記事と云うエントリを読んだ。

別に「最終記事」とかしなくてもいいと思うのだけど。ブログ形式なんだし。

これは、津村さんとしてはもはやこの話題に触れたくない、と云う意思表示なんだと思う。

ニセ科学問題を扱うのは、科学素養(プラス法律素養)がある程度ある人じゃないと難しいとも思う。考える余裕がある人や興味がある人が、自分の本来の活動と絡めるなり絡めないなりに活動することになっているのではないかと思う。

これは果たしてそうなんだろうか。

私事で恐縮だけどぼくは科学的素養や法律の素養があるとはとうてい云えない人間だ。そんな奴がどうこう云うべきじゃない、と云う声も聞こえてくるけれど、その点についてはこちらのエントリでちょっとまとめめいた意見を書いたつもりだ。ぼくはニセ科学問題の裾野はそうとうな広がりを持っていると思うし、それはぼくなんかみたいな立ち位置の人間からしても、直接の利害関係があるものとして感じられる。

ましてや、津村さんは研究者だ。距離の取り方はそれぞれにしろ、ニセ科学問題に無縁であることのできる科学者なんかいない。
あまりうまい比喩ではないけれど、例えば繁華街でやくざがピストルを振り回しているときに、その場に居合わせた警察官が無縁でいることができるのだろうか。四課に所属していなくても、非番でも、無関係ではいられないはずだ。もちろん、見つからないようにその場をこっそりと離れたりはするかもしれない。でも、「所轄じゃないから関係ない」と公言して堂々と傍観することは許されないだろうし、なんとか対応しようとする同僚を嘲笑うことも許されないと思う。

すべての科学者にとって、ニセ科学はその職業倫理と直接対立するもののはずだ。立ち上がるだの立ち向かうだのはそれぞれのスタンスがあるだろうとは思う。でも、立ち向かうものに対して批判を行うと云う行為に及ぶにあたっては、おのれの職業意識に照らし合わせた熟考が必要なのではないか。

人が持っているリソースは限られているから、無駄なところへの投資は廃して、意味があるところに投資できると良いと思う。

この「ニセ科学に向けられる無駄なリソースの排除」と云うのは、菊池氏も天羽氏もいつもおっしゃっていることだったりする。もったいないもんね。