Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

断ち切るもの、受け継ぐもの

映画を見て来た話を書こうと思ったら、適切なカテゴリを設定していない。映画なんて年に数本しか見ないので、既存カテゴリで代用(Feb 19,2008追記:新カテゴリ設定に伴いカテゴリ変更)。
夕凪の街 桜の国をつれあいと見に行った。街外れの映画館まで、だらだら汗をかきながら歩いた。

原作の、その短さのなかに織り込まれた物語の深い重層性についてはすでに多くの方が語っている。ひとつの方向に一定の速度で流れる時間軸しか持ち得ない映画でそのことを表現するのは、難解になることを避けようとすれば簡単じゃない。ここで映画を撮る側が選んだのは要素の抽出と集中と、あとは俳優たちの行う表現に委ねること、だと感じた。

まぁぼくの映画評なんてあてにならないものはどうでもよくて。映画では、原作に対し時間を3年ほど遅らせてある。「夕凪の街」が昭和33年、「桜の国」が平成19年。そして、皆美の弟、七波の父である旭が原爆スラムの片隅で京花にプロポーズするのが昭和49年。

そして、ここで物語はぼく個人のささやかな、つまらないリアルと交錯する。
昭和50年から52年にかけて、ぼくは広島市に住む小学生だった。被爆者の教師もいたし、分からないけれどクラスには二世もいただろう。住んでいた吉島の南端から街の中心部に向かうときには平和公園はいつも通り過ぎる場所だったし、その場所はいつも強くその「意味」を伝えて来た。本安川や本川の河口近くで遊ぶときには、いつもその川の底に沈んでいる遺骨を意識していた(本当に、いまでもそこに残っているのかどうかは知らない)。

戦争の惨禍を語るときに、原爆の被害をことさらに特別視して扱うことにはどこか抵抗がある。それでも、それを深く記憶に留める都市のたたずまいは、強く記憶に残っている。広島のひとたちは深い締念と少しばかりの自暴自棄さをそのこころに抱いているように感じられた。

戦争は、そこに居合わせる誰かの物語を外側から断ち切る行為だ。でも、断ち切られた後も、その誰かの物語は(その生そのものが奪われない限り)続いていく。その不連続性そのものを、なんとか取り込もうとしながら。「夕凪の街」はその苦しみを描いた物語だ。そして、それでも物語は世代を超えてつながっていく。つながっていくことは、その持ちうる意味は「桜の国」で示される。
映画は原作にないアイテムを象徴的に用いることで、この「つながっていくこと」を強く道筋づける。それは逆に、この映画が原作のいち解釈であると云う立ち位置を強調する役割も果たす。映画は「女たちの物語」となる。男たちはそれを記憶に留める役割を割り振られる。そのことは、是非を問われるようなことではないのだろう。

そうしてぼくはやっぱり、涙を流すことはできなかった。
なんと云うかもうこれは、仕方のないことなんだろうな。

夕凪の街桜の国

夕凪の街桜の国

  • 作者: こうの 史代
  • 出版社/メーカー: 双葉社
  • 発売日: 2004/10
  • メディア: 単行本