Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

「愛」

ぼくは今でこそパスタファリアンを自称しているが、多分それまでは自覚なきボコノン教徒だったんだと思う。
「愛をどうか少なめに、親切を多めに」。

大抵のひとは、日常のなかで「愛」と云う言葉を使うのをためらうと思う。その意味するところの、善悪を超えた強度に怯えのようなものを感じるのはぼくだけではないんじゃないか。
容易にその言葉を使う人間を見掛ければ、反射的に警戒心を抱くのは不自然だろうか。世界史の授業はこの国では義務教育内でも教えられているはずで、その授業に(聞き流すだけでも出席していれば)人類の歴史が「愛」と云う言葉のもとでどれだけの血を要求していたか、を知っているはずで。

なんて云う概念的な話はまぁ別として、少し若い頃の話を思い出した。もうとうの昔に10年以上が経過しているので、書いてみても構わないだろう。

20代がまだ前半だったんだろうか。同僚だったけれど、惹かれている女の子がいた。シャープな印象で、あまりなんと云うか女臭さがなくて(女性的な空気の濃い女の人は苦手だったりする。典型がいまのつれあいだったりするのも因果と云うか)。で、ちょっとした要素がいくつか重なって、ふたりで酒を呑みにいった。東京駅の八重洲口だったと思う。どっちにしろたいした店じゃない。

この歳になってしまえば照れたりせずに云えるのだけれど、若かった時分のぼくは身近な女性からは「知的」と評されることが多くて、まぁその当時は「『的』ってなんだ」みたいな間抜け丸出しの突っ張らかり方をしたりして若さ故の莫迦さ全開だったのだけれど、今からみればそこそこに可愛いものかもしれないな、とか思ったりする。で、そうなると近づいてくる女性たちは「このひとなら自分のことを分かってくれる!」みたいな思いを抱いているひとが多かったのかな、とか今になれば思う。大笑いの茶番ではあるけれど。

で、彼女は有島武郎に心酔していた。これだけで実はなんだか凄い状況なんだけれど、子供のぼくには分からなくて。
時代にはバブルの残滓が残っていて、でぼくは今よりずっと若くて、背伸びしているのが常態で。でも彼女がどうしてぼくを欲しがっているのかは分からないままで。で、「自分のことを欲しがっている相手にできる限りのことをすれば、そのことは自分自身のことも満たしてくれるのではないか」みたいに考えたりもして。

でも、どこかで気付いてしまったんだと思う。彼女はぼくから、なんだか分からないけれどいろんなものを得ているらしい。それがくちづけひとつに過ぎなくても、そこから得るものがなにかしらあって、で彼女はそれに飢えているんだ、みたいなことに。そうして同時に、ぼくは彼女がそれを得るために、ぼくに対して払ってるいろんな犠牲にいくらか怯えた。それは、酷い話だと思うけれどぼくが惹かれた彼女の美質をことごとく裏切るような媚態と、偽りの理解に満ちていた。

そう、「惜みなく愛は奪ふ」と云うことだったんだと思う。それが欲望の転移、と云うことだったのか、それはよく分からない。プライドを捨てて献身していたのは、彼女だったろう。でも、多分奪われているのはぼくだった。そして彼女はそのことを、多分自覚していたのだと思う。でも、ぼくたちの間に生じた関係のなかで、彼女はぼくに与え続けた。おそらく彼女は、自分が奪っていることを頭では多分自覚しつつ(卒論に書くほどにそのことについては考え続けていたはずだから)それでもそのことを認められない(恋する女が、自分が奪うだけだと自覚することはできないだろう)濃いディレンマに苦しんだんだろうな、と思う。
彼女は奪うだけで(その献身にも関わらず)なにも与えてくれないと云うことが分かってしまったぼくは、やっぱりどうしても彼女の「愛」に応えることはできなかった。

これぐらいのことはたいした話じゃなくて、この程度の人生におけるスケールの小さな齟齬はいろんなひとが経由してるんだろうな、と思う。でもそれは、「愛」と云う言葉の与える齟齬なんだろうな、なんて思う。

で、この程度のメロドラマ的な安物の記憶を思い出すだけでも、「愛」と云う言葉になにかしら無限の善を代表させるような言説には根本的な異論を挟まざるを得なかったりするのだ。