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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

届けられてきたもの (「父の時代・私の時代」堀内 誠一)

ちょっと久しぶりに、本が好き! プロジェクトからの頂きもの。

父の時代・私の時代 わがエディトリアルデザイン史

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書評/ルポルタージュ

いつか書こうと思っているのだけれど、ぼくの世代がはたちやそこいらだった頃には、実質的に「サブカルチュア」なんてものはなかったのではないか、と云う気がしている。と云うか、ぼくらはそこがメインストリームだと思っていたし、ぼくらの棲む領域の外にあるのはカルチュアなんて呼び方にそぐわない、なんだか暴力的で洗練されていない、未成熟な「消費文化」だけしかなかったような気がする。

そう云うわけで、逆にどんなものもその先端は紛うことなくシンプルに「先端」で。思想も、音楽も、ファッションも。で、ぼくは女性雑誌を読む男だったりした。いまよりも平然と、当時の女性ファッションには「先端」があったのだ。

そう云う意味で一番凄かったのはやっぱり「流行通信」で。誰も着ていないような、それこそアートとして理解しようとしないと意味を捉えきれないようなハイファッションの羅列。いまのファッション雑誌にあるようなものほしげな、なにかしら現世利益に繋がることを期待しているような洋服とは違う。

で、もう少し地べたに近い、でも充分に先鋭的なスタイルを載せていたのが「an-an」だった。これは時代の気分でもあるんだろうし、その時代の気分についての著述と云う1点のみにおいては、荷宮和子著作にあるとおりなんだろうな、なんて思ったりする。

いずれにせよ子供で、そして子供なりに自分を取り囲む時代精神をなんとか消化しようとしていたぼくにとって、それらの先端的な女性ファッション、そしてそれを掲載するエディトリアルデザインも含めて、アートだった。アート、と云う云い方が相応しいものであったかどうか、なんて云うのは関係なくて、いかにして自分の時代の、リアルタイムのアートとして接することが出来るか、と云うテーマ自体に意義があるように感じていた。

とは云え実際のところは、当時のぼくには事実誤認もあって。それが自分たちの時代のものだ、と云う認識は間違っていないにしろ、それはぼくたちではなくて先人たちの創ったものだ、と云うことに当時のぼくは気付かなかった。歳を喰って、いくらか創る側に廻ることで、それは気付いたことでもあって。

この本はひとりのエディトリアルデザイナーの自伝で、そしてぼくたちが享受していた時代精神がどんな場所からどんなふうに生み出されたものなのか、を伝えてくれる。その点で、和田誠銀座界隈ドキドキの日々に並ぶような好著だ、と思う。

過去と現在、そしてこれから。そのうえに、ぼくたちがいる。
ぼくたちに届けられて来たものと、届けてくれたクリエイターたちに、感謝。