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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

問題の本質

あちこちで前野昌弘さんmeets水伝授業が話題になっている。その前野さんの日記に言及した、SIGNAL-9さんの平然と行われる『差別教育』と云うエントリを読んだ。

 そもそもこの話、本質的に、『道徳』の名を借りた『差別教育』なのではないだろうか。少なくとも、容易にその暗黒面に落ち込む危険性を持っていると思う。

 なぜなら、モノゴトの判断基準を『キレイ』だの『キタナイ』だのに置いているところがそもそも差別性を内包しているからだ。

 この『説』の言ってることは『美人だとキレイな水の結晶で、ブスだと汚い結晶』ということと同質である。
 いや、もっと極端に言えば『アーリア人だとキレイな結晶で、ユダヤ人だと汚い結晶。だからユダヤ人は排除するべきだ』というのと同じ『道徳』なのである。

 この手の『道徳』が、絶対に後悔する様なロクでもない『結果』しかもたらさなかったのは歴史の中で繰り返し証明されてきたことではないのか。

基本的に同感です。と云うか、どうも科学と道徳をストレートに結びつけよう、と云う発想には、そう云う臭いが拭い難くつきまとう。

でも、江本勝の言説の背景にあるそう云う臭いが、昨今の「開戦前夜」的な世情と相俟ってウケているのかもなぁ、なんて思ったり。そんなふうに考えると、とても嫌な気分になるけれど。