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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

実学

ぼくはただのサラリーマンで、だからあんまり勉強しない。つねひごろ勉強しなきゃ、とは思っているけれど、それは仕事を通じてやりたいこと、と云う範疇に留まる。早い話がつまみ食いだ。
でも世の中にはアカデミズム、と云うものがあって、ぼくらがつまみ食いでも理解できて、応用できるように代わりに考えてくれるあたまのいいひとたちがいて。このことは、とてもありがたいことだと思っている。ぼくなんかを相手にしてくれて、示唆を与えてくれるfuku33さんなんかも然り。などと、fuku33さんの競争力の在り処と云うエントリを読んで思った。

ぼくは経営学科を持つ経済学部の出身で、だから経営学と云う学問がどんなものか、を学ぶ機会はあったんだと思う。でも、実際のところはよく分からない(関連単位は持っていそうな気がするけど、真面目に勉強したかと云えばさっぱり)。

でも、それが実学としてぼくらのビジネスの現場への応用を求められる種類の学問だろう、と云うのはなんとなく予想がつく。で、実学と云うのは、役に立ちそうな分野外の知見があれば、いくらでも無節操に援用していくような性格を持つべきものなのではないか、などと思う。

それで、社会学文化人類学の人と交流させて頂いた頃の経験から、僕がちょっと考えるようになったのは、経営学が想定しているよりも、産業的な競争力の在り処というか存在するレイヤーというのは、もっと個人単位にも所在しているし、あるいは地域社会単位にも分布している、ということを教えて頂いたような気がします。ちょっと乱暴に圧縮した議論をすると、人工物複製技術が発達すると、そのことの強みが企業単位では陳腐化して、「それでもなおもっと高度な財の生産にはこの人のセンスや指先の身体知がものをいう」というように熟練技能者の個人の感覚のレイヤー、あるいは認識、価値観、問題意識に注目せざるを得なくなります。

経営学、と云うものが通常相手にして来たレイヤーがあるとして、そのレイヤーへのアプローチだけで充分実学として機能し切れていないのだとすれば、それはもともと学問としてのスコープが違っていた、と云う話になるのではないか。だとすれば、本質的にどのレイヤーがキードライバーになるのか、と云うことが問題になってくるのではないか。そうすると、他のレイヤーを対象にして得られている成果を援用するのは、とても自然な発想だと思う。

だいたいにおいて、社会科学はその分野ごとのスコープを厳密に考えながら深めていく、と云うほど枯れてはいない、と云う気がする。まだまだ若い学問のはずだ、なんて思ったりもするのだった。


追記:
とは云え「学問としての、その分野の使命」と云うのは厳然として存在するはずではあって。
その点でも、fuku33さんと云う経営学者はまったく外れたことはしていないと思う。