Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

笑えるか、どうか

例えば、ぼくは音楽と云うのは根本的に滑稽なものだと思う。

以前に書いたと思うけれど、ぼくはオリジナルパンクスの尻尾だ。
で、だいたいパンクってのは笑える。ジョニー・ロットンのヴォーカルは誰が聴いても滑稽だ。ジョー・ストラマーの真剣さも間抜けぎりぎりだ。

だいたいのハードロックもそう。ロージズの曲のつくりなんておおむねパロディすれすれだし。

ロックに限らない。ジャズについてはぼくは入り口がセロニアス・モンク、って云う考えようによってはこれ以上ないくらいの幸運な入り口(別の考えようだと永遠のバイアスを約束されたような歪んだ入り口)を得てしまったんだけど、まぁ彼のピアノを聴けば大抵のひとはにやついてしまうだろう(そうじゃないひとには面白くもなんともないかも知れない)。クラシックでもそうで、ベートーヴェンの真剣さはまぁ間抜けだし、ショパンの技巧も無駄寸前で笑えたりする。

笑えるかどうか。ぼくは、それを本物かどうかの基準として考えている。おそらくは、音楽だけじゃなくても。

いい音楽は、笑える。滑稽だ。
どこかばかばかしいくらいまで突き抜けていないと、こちらには響いてこない。
そして、それが笑えるからと云って、その価値は少しも減ずることはない。ぼくたちの中に常備されていない、ある突き抜けたものが、滑稽さを感じさせるくらいの高みに届いていると云うことだからだと思う。

だから、笑えないミュージシャンは面白くないし、聴かない。笑われることを拒むようなファン層を持つミュージシャンも、こちらからすれば聴くに値しない。

ヘヴィ・メタルなんてどれもこれも冗談だ(デトロイト・メタル・シティを読まなくても分かる)。でもその冗談の趣味が好みと合わないので聴かない。冗談としての趣味が合わないからあまり聴かないと云う点では、ぼくからすればモーツァルトとなにも違いはない(真剣味の足りない冗談は面白みに欠ける)。

例えば尾崎豊のファンや浜田省吾のファンは、多分笑われると怒ると思う。そのことそのものが、ぼくからすると表現としての脆弱さを示しているように思える。

例えば「ひとのからだの70%は水で出来ているから、水の結晶が身体に影響する」と云うロジックを笑われれば、多分そのロジックを受け入れているひとは怒ると思う。それは、笑われることにさえ耐えられない稚拙な代物だからだ、とぼくは思う。

ユーモア、と云う言葉そのものが、実はかっこわるくて嫌いなんだけれど、でもユーモアの効用はこう云うところにもあるんだと思ったりする訳だ。ちゃんとユーモアを纏うことの出来る強靭さを持っているものが、語るに値する本物だ、とぼくは判断する。