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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

スピリチュアル「消費」法 (「オクターヴ」田口 ランディ)

いま、本が好き! プロジェクトからとても喰いつきがいのある本をいただいて読んでいる(こんなものほんとにおいらに書評が書けるのか、って読了前から腰が引けるような代物)。で、そう云うものにじっくり取り組んでると、なんとなくバランスを取るみたいに同時進行的に別の本も手にしてしまう。で、この本は帯の「知覚できないものの世界をガムランが開く」と云う惹句だけで購入した。

オクターヴ (ちくま文庫 た 54-1)

オクターヴ (ちくま文庫 た 54-1)

  • 作者: 田口 ランディ
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2007/05
  • メディア: 文庫

いや、田口ランディだって分かってて買ったんだから、読後感はどうあれ悪いのはぼくなんだけれど。

ぼくは多分バリガムランのマニアだ。でも、バリは一回しか行ったことがない。それも絵に描いたような典型的な観光旅行。泊まり先はレギャンで、自力でうろついたのはレギャンからスミニャックの近辺まで。クタ方面にさえ行っていない。要するに地域的には観光化されたあたりで、さらにその中でも比較的お上品なバリだ(それでもうろうろしてるうちに早朝のレギャンのマーケットに紛れ込んだりはしたけど、そこにあった剥き出しのバリの地域社会にはやっぱり気後れしてしまって、何も買わずに出て来た)。観光客向けのバロンダンスやケチャを見て、観光客向けの土産物屋で買い物をした。それでも、3泊4日の観光旅行としては結構受け取るものがどっさりあって、いっぱいいっぱいだったりした。ガイドをしてくれたウブド在住のスバンディさんがとても知的なひとで、ぼくの(多分観光客としては結構突拍子もない)関心の角度から発せられるいろんな質問に存分に応えてくれたことも大きかったんだろうけれど。

で、ぼくはこの小説のヒロインが滞在した(「本当のバリ」があることになっている)ウブドには足を向けなかった。多分、訪れていても消化しきれなかっただろう。

この小説はスピリチュアルなテーマを扱った小説、と云うことになるんだと思う。でも、実際のところヒロインの女性は自分の問題を解決するために、最初から最後まで「バリ」に奉仕させっぱなしにしている。現地のガイドを務める日本人青年にも、バリアン(ホワイトマジシャン)にも、別のスピリチュアルレイヤーから訪れた存在であることを示唆されている画家にも、そうしてストーリーの基調低音であるはずの(実体としては登場しない)友人にも。彼女をレイプする白人の不良中年でさえ、結果としては彼女に「スピリチュアルな癒し」を与えるために奉仕する結果となる。

ひとつの地域社会としてホリスティックに完成された文化を持っている、と云うのは、ぼくの考えるバリの魅力の重要な根源のひとつだ。それを理解しているなんてもちろん云えないけれど、でもぼくが惹かれる大きな理由だ。でも、そう云うバリはこの小説には一度も登場しない。入れ替わり立ち替わり現れるのは、「スピリチュアル」な断片としてのバリだけだ。悪の象徴としてのランダと対になって初めてまったき世界観を構成するはずの聖獣バロンでさえ、この小説の中では一面的で安っぽい「善なるもの」として扱われる。
そうして、おのおのの断片はとても都合よく、彼女を「癒す」ために奉仕する。「独特の文化」を背景に、ハイクオリティのホスピタリティを発揮するわけだ。

なるほどなぁ、と思った。この国で大流行中の「スピリチュアル」の安っぽさそのままだ。
確かにまぁ、このヒロインに感情移入できるひとたちからすれば、この小説世界はとても居心地がよかろう。

ヒロインは神経を病んでいるようなんだけれど、その描写もいかにも軽い。彼女が病む原因となった実社会との紐帯として象徴的に「絶対音感」と云うものが扱われているのだけれど、彼女にとってその存在がそれほどまでに重いものであるのなら、それこそ平均律も何もないガムランとの接触はもっと衝撃的であってもおかしくないはずだ。でも、そんな描写は(意味を持つ範囲では)ほとんどない。だったら絶対音感なんてネタは持ち出すな、とか思う。

なんと云うか、ヒロインはとても分かりやすい行動を取っている。要するにバリに出掛けて、スピリチュアルを「消費して」いるわけだ(それを隠すためかどうか、この小説の中には「支払う」シーンはひとつもなかったような)。小説としては面白かったとは云えないけど、なんと云うか、あちこちに溢れている「スピリチュアル」関連の言説の背景にあるものが透けて見えた気がした。