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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

違和感への手がかり

TAKESANさんのくおりあと云うエントリ経由で、双風舍サイトで「脳は心を記述できるのか」と云う連載が始まったことを知った。斎藤環茂木健一郎の往復書簡による対話を連載していこう、と云う企画らしい。その1回目、斎藤環による最初の書簡、第1信  「価値のクオリア」は存在するか?(斎藤環)を読んで、いまちょっとわくわくしている。

ぼくの茂木健一郎に対する興味は、まずなによりもこれほどその言説が世間に求められている、というところにある。いま、おそらく「彼の語ること」は「みんなが聴きたいようなこと」なのだ、と思う。で、彼が語っているようなこと(内容でなく対象)についてはなるほどぼくもとても関心があるし、それらについて何らかの腑に落ちるような知見を提供してもらえるのならとても嬉しい。でも、変な話だけど、どうして世間のみんながそれらについて同様に関心を持っているのか、がよく分からなかったりするのだ。

で、じゃあどうしてその著書になかなか触手が動かないかと云うと、要するに彼の扱う題材に対する彼の各所での発言がまったく腑に落ちるものではない、と云うところにある。なんと云うか、「科学に基づいたすっきりした説明」をしてくれている気がさっぱりしないのだ。この辺の違和感については少し前の「音楽を『考える』」についてのレビューでも書いた。彼がそう云う語り方をするのは、ぼくたち知的能力に劣る一般大衆に理解できるような水準でかみくだいているからなのか、それともまた別の戦略があるからなのか、その部分がどうしてもひっかかっている。

で、そう云う語り方のせいか実際のところ(表面的な部分だけではなくて)彼が何を伝えたいのか、と云うことを上手に掴むことができなくて、多分そのせいで「じゃあ俺は彼の云っている内容のどこにこれだけの違和感を感じているのか」と云うことも把握できなくて、変な話だけど随分もどかしい思いをして来た。

双風舍での連載1回目で、斎藤環はその部分を見事に言語化してくれている。

 ところで、私の感ずる疑問の第一は、まさにこの「クオリア」という概念にきわまります。
 「クオリア」を肯定することは、「この私」のゆるぎなさを肯定することです。
 「この私」という立脚点を肯定することなしに、クオリア概念をつきつめて考えることはできない。言いかえるならば、クオリアについて考えることが可能であるためには、認識の主体である「この私」の肯定、すなわち実体化が前提となるのではないでしょうか。
 私の懸念は、もはやおわかりでしょう。私は、懐疑する能力こそが、倫理の前提であると考えています。しかし、クオリアの全面肯定は、はっきりと「懐疑する心」に対立します。
 私が懸念するのは、茂木さんがクオリアを私秘的なものであるとしながらも、どうやらそれを価値判断の根拠に据えたそうな身振りがかいま見えることです。
 人が倫理や美を認識しうるのはなぜか。それは、脳に倫理や美を感知する中枢があらかじめ存在するから。ひょっとすると茂木さんは、そのようにお考えではないでしょうか。
 ならば、そうした中枢の存在はどのようにして証明されますか? 倫理や美の刺激に接したときだけ、発火するニューロンを見つければいいのでしょうか。だとすれば、美の中枢が見いだされる以前に、倫理や美の判断が、あらかじめなされていなければなりません。すると「本当の判断」をくだしているのは、いったい「誰」なのでしょうか?
 失礼ながら、茂木さんの言説がしばしば危ういものに思えてしまうのは、茂木さん自身の意識はどうあれ、世間は茂木さんに「新しい価値を説く人」を見ているように思われるからです。すくなくとも、茂木さんの読者の大多数は、茂木さんがその華麗な身振りで、脳と価値観を結びつけてくれることを熱心に期待しているはずです。あるいは茂木さんは、まったくそのような自覚をお持ちではないのでしょうか。

引用の羅列で我ながらどうかと思うけれど、なんと云うか、ぼくがひっかかっていた部分が正確な、過不足ない疑問として呈示されている。
で、みもふたもない云い方をしてしまうと、ぼくが茂木健一郎に感じていた違和感は、一連のニセ科学に感じていた「なんかへんだぞ感」に非常に近いものだ、と云うのが分かった(これはもちろん、ストレートに茂木さんの脳科学ニセ科学である、と云う意味ではない。ないけど、ぼくのなかにあるなけなしの常識が類似したアラートを発している、と云うことではある)。

これ、往復書簡だってことは、このエントリに茂木さんのお返事が来る訳で、なんと云うかちょっとwktkな気分だったりする。先にも述べたけれど茂木さんの扱っている対象そのものは長年の関心事に近い部分なので、斎藤さんに対する回答を踏まえることによって、ぼく自身茂木さんの言説に有効に接するための角度を決めることができるかも知れない、みたいな部分で。

ところで多分名前を知っているくらいだから斎藤環の著書も1冊くらいは読んでいるんだろうけど思い出せない。ちょっとおこづかいを貯めて買ってみようかな(ちなみにラカンははたち前後に「現代思想」の特集号を買って来て理解しようとして挫折した記憶がある。もうすこし分かりやすいといいな)。