Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

「誰か」から「誰か」へ

今井千晶さんの科学の目と云うエントリを読んだ。この方は歌い手で、ちょっと怪しげなヒーリング関係のお仕事もされているようだ。この方の扱われている「生体エネルギーを測定調整するコンピューターシステム」ってのはまぁちょっとしたニセ科学になるんだろうし、ホメオパシーにも関係しているようではある。ただ、その運用については結構注意深い、穏健な手法をとられているように見える。

有名な江本勝さんの「水からの伝言」をはじめとする「水」に関するものは

今、多くの人が知って、生きる命の知恵として、大切な心の部分への

語りかけとして 私たちにメッセージを送ってくださっていると

私はおもっています。美しい写真集も家にあります。
左巻 健男さん、菊池誠さん、いまのところ私はこのお二人の文章しか読んでいませんが

どちらの方のお話も 興味深い。 思いこみや偏見のめがねをはずして

すなおなこころで いろんなひとの言うことに一応耳を傾けてみると、

自分の中に 大切にしたいことがみえてくる気がします。

正直なところ、ぼくなんかを含めたアカデミズム外の市井の人間にとってみれば、これらの間で揺れ動くのは実際普通のことなんだと思う(まぁこの方の場合セラピストのようなこともされているようなので、問題なしとは云えないけれど)。両方に存在しうるバイアスを考慮に入れて、考えたうえでこの方の云う「大切にしたいこと」を探して行くのがせいぜいできることなんだろう。そのうえで「水からの伝言」を信じることを選ぶひともいるのだろうし、まぁそう云う方がビリーバーになる、ということなのかも。

ただ、この方は歌い手だ。表現者だ。

自分の中に伝えたいことがあって、表現したいことがあって。そのツールとして、自分の声を選ぶ。
うたう言葉を選ぶ。それを乗せる旋律を選ぶ。うたい方を、表現のし方を選ぶ。伝えたいことが、誰かに届くように。誰かと云うのが具体的に顔の浮かぶ「誰か」じゃなくても、自分の伝えたいことを受け止めてくれる、ひょっとしたらそれを必要としている「誰か」に伝わるように、努力と訓練を積み重ねる。この方が表現者であれば、その難しさと重み、そうしてそれをする意義を誰よりも分かっているはずだ。

だとすれば、誰に伝えるでもない、紙っぴらに書いた言葉が、表面的に整っているだけの氷を作り出す、なんて絵空事が、少しも素敵なことではないことを、誰よりも強く感じ取れるはずだ。伝える誰かを持たないかたちだけの言葉が、ご自分でうたわれる心の底からの歌に比べてどれだけ空疎なものか、と云うことを。かたちの崩れた水の結晶を一面的に「醜い」と決めつけ、不道徳な行いの結果のように取り扱うことのうすっぺらさを。
うたうことは、表現することは、そんな安っぽい営みではないはずだから。

例えば、富山大学の大野圭介准教授による水に芸術はわからないと云うエントリや、それにかこつけて書いたぼくのこのエントリなんかを読んでもらえれば、きっと伝わると思う。ぼくは(多分朴斎先生も)この方のようなひとに「伝わって欲しい」と真剣に考えて、書いたのだから。



5/29追記:
こうやってどなたかのエントリに言及するときは、いちおうエントリ単体ではなくてそこからリンクされている各ページの記載内容も確認するようにしている。このエントリの最初の部分のヒーリング云々と云う部分は、今井さんのブログから同名義のオフィス名のサイトを確認し、そこから推測したものだ。ご本人の最近のエントリで、この点について事実誤認であるような記載があったので、この部分はpoohの推測に基づく記述であったことを追記しておく(ただ、完全に無関係と云うことかどうかは判断できない。と云うか、あんまり本題には関係ないかも)。