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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

音楽の定義 (「音楽を『考える』」茂木 健一郎・江村 哲二)

看板に偽りあり、とまで書くと云い過ぎか。

音楽を「考える」 (ちくまプリマー新書 58)

音楽を「考える」 (ちくまプリマー新書 58)

  • 作者: 茂木 健一郎
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2007/05
  • メディア: 新書
ずっとひっかかっているのだけれど、茂木健一郎の単著をちゃんと読んだことがない(いや、積ん読状態になっているのはあるんだけど)。で、断片的に見かけるあちこちの発言では、なんか「すげぇ頭がいいことになっているひとのコメント」的なニュアンスしか汲み取れなくて、正直言ってこのひとの考え方がどんなふうにユニークなのかまで読み取れない。これはやっぱりぼくの頭が悪いのか、それともちゃんと著書を読まないとこのひとの発言の真意と云うのは分からない仕組みになってるんだろうか。

「音楽の快楽の源泉」がどこにあるのか、と云うことについてぼくはよく分からないままで、そう云う訳でこの本は書店で見かけて書名だけで衝動買いした。で、それなりに楽しく読みながらも、読み終えて正直失望した。ぼくの知りたいことはほとんど何も書いてなかったからだ。でもまぁ、ぼくが期待し過ぎだったのかも知れない。冷静になって考えてみると、脳科学者とクラシックの作曲家が対談したところで、そんなことが分かる訳もない、と云う気もするし。

例えば、ここにおいて俎上にのぼっているのは基本的に西洋音楽(≒クラシック)だ。クラシック愛好家と職業クラシック作曲家の対談本なのだから当たり前と云えば当たり前、なのだけれど、でもこのタイトルでスコープがそこに留まるのはちょいと看板が大きすぎやしないか。
「芸術音楽(=西洋のクラシック)」と「商業音楽(=流行歌)」を安易に対峙させる発想もいただけない。多分実際には、その構図に乗らない音楽のほうがこの世界には多いはずだ。前者にはクオリアがあって後者にはない、と云わんばかりの議論の進め方も、疑問に感じる、ってのを通り越していっそ爽快なまでの不愉快さを感じさせる。自分たちで題材を定義してそのなかでだけ話してればそりゃ楽しいだろうさ。

終盤には、まるで日本には音楽を理解するだけの成熟した大人の知性が育っていないからクラシックが普及しない、と云わんばかりの会話が展開される。それってどうよ。クラシックが偉いんか。それって「それやったらクラシックの親分はモーツァルトやろ。万病に効くしお茶だって旨くなるもんな」って発想と直でつながるんじゃないのか。

クラシックはあんまり聴かない(特にオーケストラ曲は。主にそれだけの時間が取れないことによる)けど、別に嫌いじゃない。聴き込んではいないけれど好きな作曲家も演奏家も指揮者もいる。でも、それと同時にもともと楽譜が存在しない(あるいは楽譜を前提としない)ような音楽のほうがぼくは馴染みがあるし、そう云う音楽が劣るとはさっぱり思わない。音楽を「知的」に聴こうなんてまるきり思わないし、そう云う発想そのものがおそろしく知性というものとかけ離れているように感じられて仕方がない。

まぁ読んでいてエンタテインメントとしては楽しかったけれど、とくに「知的」興奮は得られなかったし、そもそもぼくが知りたかったことはほとんど何も得られなかった。

茂木 この本の大きなテーマとしては、これを読んだ後、音楽についての考えが読む前とは全く違ったものになってしまう、ということを意図して色々とお話ししていきたいと思います。

何にも変わらなかったですが。クラシックは楽譜が前提となっているから、クラシックに携わる方は楽譜を前提にしないと音楽についてなにも語れない、と云うことを知っただけに終わりました。楽しかったので金返せとまでは云わないけど。