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立脚点のありか (「メディア・バイアス あやしい健康情報とニセ科学」松永 和紀)

読みました。

メディア・バイアス あやしい健康情報とニセ科学 (光文社新書 (298))

メディア・バイアス あやしい健康情報とニセ科学 (光文社新書 (298))

  • 作者: 松永 和紀
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2007/04/17
  • メディア: 新書

情報を収集して、判断して、ストーリーをつくって、表現する。この流れについては、マスメディアにいて禄を食んでいるプロもぼくのような泡沫ブロガーも同じで。だからいずれにしても絶対にバイアスは存在する。これは前提で、だからそのバイアスへの向き合い方が問題になる。ぼくだって、自分のバイアスを認識して、できる限り理解して、それを踏まえた上でエントリを起こすことを意識している(だから時折無様な自分語り的エントリも書く。自己正当化すれば、それはバランスを取るための行為だったりするわけで)。
ぼくのバイアスについては、読むひとが判断してくれればいい。ぼくに課せられているのは、自分の内側の倫理観と矛盾しないよう留意して、伝えたいことが伝わるよう文章を連ねることだから。
でも、報道に携わるひとたちについては、求められるものがまったく違うはずだ。

マスメディアの現場にいる方々にも、もちろんバイアスは存在する。でも本来彼らには(その食い扶持に見合うだけの)より高い倫理が要求される。それで喰ってるのだから、職業倫理だ。なんらかの言説を問う場合には、そのバイアスを充分に客観視する責任がある。そのことができる、と云うことが、本来報道によって収入を得ている存在として生きることを許される立脚点であるはずだ。
その倫理を資本の論理に売り渡すようなことがあれば、これは議論の余地なくevilだ。それは自分の職業の尊厳を貶め、自らペテン師であることを認めるのと変わりない。
ペテン師であることを認めた瞬間、そこには職業に伴ういっさいの特権は消失する。

この本に書かれた豊富な事例は、いとも簡単にその職業的倫理と尊厳が失われることを示している。マスメディアのインサイダーが自分の職業をたやすく汚す姿が、連綿と書き連ねられている。

この現状をよしとするなら、もうこの国のマスメディアに(自ら持って任ずるものであろうと)「良識」は期待できないと云うことになる。社会の期待と信頼に対して、背任をもって応える存在だ、と云うことだ。もちろんここでぼくがどう書こうと、彼らに届くはずはないのだけれど。

もうそれはそれとして、ぼくとしては著者の「自分のバイアス」に向き合う姿勢に学びたいな、と思った。それだけでも読む価値はあった、と思う。