Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

自覚的、であればいいのだけれど

サイエンスライター鹿野司さんのオカルトは大人の心の平安のためにあると云うエントリを読んだ。

 なんの根拠も示さず、とにかくダメというのも良いんだけど、そのやり方は、たぶん現代の大人の側に、よりどころのない心細さを感じさせてしまう。

 だから「これこれ」だからウソはダメ。「これこれ」だからきれいな言葉遣いをしようと、何らかの理由付けをしたくなっちゃう。その「これこれ」が閻魔様や水伝ってことだ。

それは理解できるんだけど、でも水伝授業をしちゃう教師ってのはそれを「方便だ」と認識してるんだろうか。
方便ってのは薬みたいなもので、と云うことは「薄めた毒」で。効くからと云って手放しに使っていいもんじゃない。その認識を持って使うかどうか。

 授業の場面で、「いやでも、ことばをかけたって結晶はきれいになったりしないけどね」と教師が言えば、子供たちは「なんだー、じゃあきれいな言葉使っても意味ないじゃん」とか、絶対にツッコミを入れるはず。教室が健全に運営されていれば、そうならないほうが不思議だ。

 そしたら教師は、それに応じて色々なことが言える。こういうときに、子供たちにどう対応していくかが、教師のアート(技)であって、それを通じて「きれいな言葉を使った方が良いよ」ということと「まあオカルトを信じるとしてもほどほどにね」みたいなことは伝えられるはず。

それだけの技能と職業倫理を持った教師ばかりならいいのだけど。でもあちこちで見る「うちの子が授業で『水からの伝言』の話を聞いて来ました。感動しました!」みたいなブログを読むと、どうもそうとも思えないんだよなぁ。